2013年10月31日木曜日

これはゲームじゃない



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

これはゲームじゃない
(http://www.hashslingrz.com/its-not-game)

 ハーマン・ランドは駅からハンティントンビレッジへ向かって長い距離を歩きながら、裏通りにあるあの小さな店をもう一度見つけられる自信が持てずにいる。見え見えのコピー商品。ケヴィン・コスナー主演『ポストマン』。新品のDVDなのに再生ができない。安物だったら文句は言わないが、今では近所のウォルマートでもその半額で売っているDVDだ。同じ場所をぐるぐる回っていた彼は幸運にも、二周目で店を見つけた。イタリアンの総菜屋の隣。まるでわざと客に見つからないようにしているかのように、目立たない店構えだ。
 中には、店員以外誰もいない。「おたくが売ってるのは欠陥商品ですよ。これ、再生できませんでしたからね」
 店員がパッケージに目をやる。「リージョン6。中国からの輸入品ってはっきり書いてありますよね。買う前にチェックした方がいいっすよ」。そう言って、壁に貼られた、戦略ボードゲーム「リスク」に使うボードらしき地図を指差す。
 「今の話、あの地図と何か関係がある? 私をからかってるのかな」。ハーマンはいらつく。
 「うちの店は、リージョン1以外のDVDを専門に扱ってます。DVDのリージョンマップと、そこの壁に貼ってる七〇年代の『リスク スペシャルエディション』を見比べたら、リスクの六大陸とDVDのリージョン分けがぴったり重なるんです。当時は、工業が盛んになった日本がヨーロッパを征服した格好になってる。でも、まあ、構わないっすよ。はい、返金します。でも今度からは、買う前にラベルを読んでくださいね」
 ハーマンは自分のミスだったことに気付いて恥じ入りながら金を受け取る。「ありがとう。子供の頃はよくリスクをやったよ。でもすごく時間がかかる。ゲームが終わるのを見たことがない。あのゲーム盤、ずっと取っておけばよかったなあ」
 「トイ・ソルジャーって店に行ってみたらどうです? メイン通りにある、変な委託販売店。先週、あの店には天井近くまでリスクが積んでありましたよ。制作年が違うバージョンが揃えてあった。でも、店のオーナーが変人でね。『ゲームは終わらない』ってのが口癖なんです」
 ハーマンは駅に向かう途中でトイ・ソルジャーを見つけた。子供時代のノスタルジアを刺激された彼が店に入ると、挙動不審な男が棚から物を取っては大きな木箱にそれを放り込んでいる。そして、同じような木箱が床にいくつも並んでいる。
 「何かお目当ての商品でも?」
 「あなたが店のオーナー? リスクが手に入るかと思って、ここへ来たんですが。DVD屋の男から話を聞いて」
 「最近はオンラインでよく売れてます。売れたらすぐに次の商品が届く。荷物には切手も貼られていなくて、どこから届くのかも分からない。昨日も同じように荷物が届いたんですが、今回は書類と謹呈票が添えられてました。謹呈票に書いてあったのは、今のうちに手を引けというメッセージ。だから今日は大サービス。あそこの棚にあるのは、一九五七年のフランス版『世界征服』。よく見てみてください。イスラエルの国境が六日戦争後のものとぴったり一致してるんですよ」
 「それはつまり……何? 実は五七年に作ったゲームじゃないって意味?」
 「それがあなたの解釈? リスクゲームに描かれたアフリカの地域分けは、一八八五年のベルリン会議で合意されたのとほぼ同じだって知ってました? もちろんゲームの方が会議より後に作られたんだから不思議じゃないってお思いでしょうが、話はそれで終わらない。というか、むしろ、そこから重大な話が始まってるんです」
 彼はハーマンに、木でできた古いゲーム盤を見せる。板にはドイツ語で「世界征服、一七九五年」と刻まれ、ハーマンが歴史の授業で習った通りの、あるいはリスクのゲーム盤で覚えた通りの――彼は急に、それがどちらだったのか分からなくなる――アフリカ地図が記されている。そして、「ヨーロッパ征服」とフランス語で書かれた別のゲーム盤には、オーストリアとチェコスロヴァキアとポーランドが描かれている。
 「オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊する十年前に制作されたものです。ポーランドの国境だって、カーゾン線とぴったり一致する。それだけじゃない。うちに届く荷物には書類が添えられるようになった。機密書類のリークです」
 彼はフォルダーを手に取り、書類をばらまく。ニクソンがオフィスで使っていたメモ帳らしき紙に手描きされた地図には、国内の動揺が極限に達した場合の、アメリカ国土東西分割案が詳細に記されていた。見慣れない縦書きの文字を添えた地図では、モンゴルから朝鮮半島に矢印が伸びている。ロスチャイルド系列から出された手紙では、金融危機が生じた場合、EUを北・西・南の各地域に分断するアイデアが提案されている(イギリスについては言及なし)。ドン・チェイニーあるいはディック・チェリーによる署名があるメモには、アフガニスタンとイランに絡む問題の解決法として、二国を合併し、国境を北へ移すという提案が書かれている。
 「リスクのゲーム盤は世界を、方向の定まらないグラフとして描いている。領土のノードは辺で結ばれ、プレーヤーは交点の一つ一つで選択を迫られる。ゲーム盤は、起きた出来事を振り返るための分析にも使えるし、これから起きることの予測にも使える。何百年も前からエリートはこれをゲーム理論に使って、世界を分割し、再分割してきた。時々間違いが起きて、秘密の戦術があちらの世界からこちらの世界に漏れることがある。でも、ボードゲームに見せかけてあるから、普通の人にはゲームにしか見えない。でも実はゲームじゃない。これ以上にうまい偽装はないでしょうね」
 「先週には、リスクの|一人プレー《ソリティア》版が届きました。全世界郵便連合スペシャルエディション。世界全体が一つの|地域《リージョン》として青く塗られていて、それ以外の国境とか、地域分けが何もない。プレーヤーはサイコロを振って小さな内乱を起こす。ゲームの使命は内乱を鎮圧すること。でも私は今、ちょっと急いでるんです。ほら。全部持ってってください。代金は要りませんから」
 「すごいコレクションだ。これだけ揃えた人は、よっぽどこのゲームが好きなんでしょうね。でも私は一つでいいんです。こんなにたくさん、駅まで運べないし」
 「あなた、話を聞いてなかったの? まだこれをただのゲームだと思ってる? さっさと行動しないとやばいよ。あなたも、私も、他のみんなも。知らん顔してれば逃れられると思ってる?」。興奮した店主の目がほとんど眼窩から飛び出しそうになる。
 「ああ、もういいです。何も要りません」とハーマンが立ち上がる。
 「私のためとは言わない。人類のために、|一人プレー《ソリティア》版を持ってってください。リスクに終わりはない。それだけは絶対、間違いない」
 ハーマンはゲームを手に取り、店を出て、駅のある南へ向かう。そのとき、二台のトラックが止まる。車の側面には何も文字が書かれていない。球体の周りで踊る五人のメッセンジャーを描いたロゴだけ。五人のうち一人はアメリカ先住民だ。ガードマンらしき男らがヴァンから出てくる。何人かは角の向こうに回り、別の数人が店に入る。おもちゃの兵隊みたいな動きだ、とハーマンは思う。でも、あのロゴ、|一人プレー《ソリティア》版のゲームに記されていたのと同じデザインじゃなかっただろうか?


【訳者解説】
 DVDのリージョンは0(フリー)以外に、北米を中心とする1、西ヨーロッパと日本を含む2、中国全土の6などに分けられています(詳しくはウィキペディアを参照)。リスクというゲームについては、日本ではあまりなじみがない気がしますので、こちらもウィキペディアを参照してください。
 六日戦争とは、一九六七年六月の第三次中東戦争のこと。他も細々した世界史情報が織り込まれていますが、余計なお世話の気がするので説明は省きます。
 ゲームに見せかけた世界征服計画。陰謀論とゲーム。郵便システムと世界統一。これまたよくできた短編です。

(了)

2013年10月23日水曜日

オフィスから私用電話



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳
(http://www.hashslingrz.com/abusing-office-phone)

オフィスから私用電話

 かつてはオーガスタが職場で大事にされた時期もあった。子供たちが生まれる前、産休を取る前、苛烈な離婚の前のことだ。夫は結婚前取り決め書を偽造して不相応な財産を分捕り、残された金もすべて、親権争いのために雇った弁護士どもに持って行かれた。だから元夫が今、ニューヨーク証券取引所の総合指数が一万を超えるのを眺めながら、自分の持つ株式売買選択権ににやついている一方で、オーガスタは短期契約の仕事で食いつなぐ有様だった。人生のどん底。彼女は結局、元夫が作ったいちばん新しいIT会社に雇われ、誰もやりたがらないテストを山ほど引き受ける羽目になった。同僚は皆、成人したばかりでニキビだらけの男たち。何も知らないくせに、何でも知ったかぶりをする連中。職場に一人だけ女が混じると、スケベな夢想の種にするか、あるいはオーガスタの年齢に近づくと、ここぞとばかりに性差別と年齢差別の標的にするようなやつら。でも今日が最後。だから、オーガスタはあるいたずらを計画していた。
 「やあ、おばあちゃん、机の上にあるその妙ちくりんな道具は何だい?」 はいはい、リック。いつものように挑発的なご挨拶だわね、とオーガスタは思った。
 「VAXクラスターで動くARM11のチップ。OSはBLISS、FORTRAN、ADAのコンパイラを使ったVMS。共通言語環境がターゲットよ。今作ってるのはまだプロトタイプだけど」
 「はあ? 古くさ。コンピュータはどこで習ったの? 石器時代?」
 「履歴書に書いた通り。ノースヨークシャーのハロゲート。つまりイギリスよ、リック」
 「はあ? エゲレス? やっぱ石器時代じゃん。博物館行きって感じだね。もうすぐ、新しいインターネット・ホスティング・サービスに使うためのブレードサーバーがいっぱい届くから、さっさとそこを空けといてくれるかな、おばあちゃん」
 「すぐに終わるわ、ニック。今、もうこれで最後だから」
 オーガスタはモデムを電話のジャックにつないだ。
 「何やってんの。それ電話をつなぐところだぜ。ネットワークコンセントは机の下」
 「ありがとう、リック」
 彼は本日三杯目のモカ・フラペチーノを飲みに、オフィスの休憩コーナーに消えた。
 しかし、オーガスタが必要としていたのは、まさに旧式の電話通信サービスだった。時は二〇〇七年。本当に大事なものはVMSで動いている。証券取引、航空機の管制システム、郵便サービス、国税局、国家安全保障局、銀行とATM。基本的には重要なもののすべてだ。なぜなら、|コンピュータ緊急対応チーム《CERT》が報告するVMSのセキュリティー問題一件に対して、Linux なら二十件、Windows なら三十件の問題があるからだ。
 とはいえ、エシュロン《ECHELON》設計の中心メンバーで、監視プログラムSILKWORTHを一人で作ったオーガスタにとって、セキュリティは相対的な尺度でしかない。そうした最重要システムの多くに、とっくに忘れ去られた通信プロトコル X.25 DTE がまだ残っているのを彼女は知っている――使われないまま、そしておそらく誰にも愛されないまま、オーガスタを待つプロトコル。まずはJANETを呼び出す。簡単に侵入。アカウントはいまだに有効。パスワードの変更もなし。コマンドラインで向こうにバッファオーバーフローを引き起こし、スタックを詰まらせる。FINGERでリモートのホストコンピュータを調べれば、SYSPRVはちょろい。あとはXOTのトンネルを使ってアビリーンを経由(船が揺れますので席をお立ちにならないでください)。DNICSを二つほど抜ければ、ウェルズ・ファーゴ銀行。
 「なあ、オーガスタ。まだオフィスで私用電話してんの?」。リックが戻ってきた。山羊髭からスニーカーにモカがしたたっている。
 「すぐに終わるわよ」
 「あんた本当は、何年も前に終わってるけどな。俺らはAjaxを使ってきびきび仕事してる。きっとあんたにとっては、エイジャックスはバスルーム用洗剤の名前、きびきびといえばラジオ体操なんだろうなあ」
 「あなたって面白い人ね、リック」
 交換仮想回線確立。口座にアクセス。ケイマン諸島に送金完了。ふう。元夫のビジネスには多大なベンチャーキャピタルが投下されているから、この金がなくなっていることに誰かが気付くのは遠い未来になるだろう。仮に気付いたとしても、巧妙に隠蔽された金の動きはこの新設企業のオフィスまでしかたどれない。監査人はたぶん、このIT会社もまた経営が危ないと思うだけだ。
 「そこにいる高齢者のお方、サーバーが届きましたよ。そこ、ちょっと邪魔なんですけど」
 「いいわよ。もう終わった。リック、あなたの言う通り。もう切らなきゃね。仕事も終わったし。引退して、カリブ海にあるどこかの島に行くことにするわ」

【訳者解説】
 今回の短編はやたらにネット関係の難しい語が出て来るので、訳の正確さに自信が持てません。その方面に詳しい方はぜひ原文をご参照ください。ネット監視システム、エシュロンは説明不要でしょうか。ちなみに、「オフィスから私用電話」というフレーズは、ピンチョン『ブリーディング・エッジ』の5頁で、主人公マクシーンがオフィスに出勤したら、受付の女の人が私用電話を掛けているという場面に登場します。
 ついでにコマーシャルをすると、来月(11月6日)発売の文芸誌『新潮』に『ブリーディング・エッジ』の書評を書きました。書評といっても半分は新作発売までのいろいろな動向(一月に新作発売の噂が流れてからの動き)で、残り半分が新作紹介という感じです。乞うご期待。
(了)

2013年10月16日水曜日

政治と散文



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

政治と散文
(http://www.hashslingrz.com/politics-and-prose)

 英國に戻ったメイスンとディクスンはチェシャー・|乾酪《チーズ》|旅籠《タヴァーン》に宿を取った。二人が或る晩、ドミノをやりながら黒麦酒と雲雀《ヒバリ》入りの布甸《プディング》の夕食を楽しんでいると、偶然そこへマスクライン牧師が現れた。王立協会の集まりに参加するために倫敦《ロンドン》へ来たに違いない。
 「チャールズ君、ジェレマイア君、これは驚いた。君たちがそろそろ植民地から戻るという話は聞いていたが、まさかこの旅籠にいるとは。王立協会でも汝らの測量は大層な噂になっていた。ぜひここで、土産話と将来の計画を聞かせてはもらえないだろうか」
 マスクラインが姿を見せてからずっと苛ついた表情を見せていたメイスンが不意に、律動的《リズミカル》な口調で詩を詠み始めた。

夏の花は枯れ、死す
苗木に水をやれ
豊かな胸は子供らを養う

 「メイスン殿は愛妻レベッカさんの死に大層胸を痛めておられる」とジェレマイアが説明した。「傷心の治療として、旅先で東洋の専門家が勧めた方法として、メイスン殿は今、人生の両極のバランスを整えようと試みているところ。散文詩のみを口にすることで、熱さと冷たさ、光と闇、生と死などなどのバランスを整えるのです」
 「それはまた変わった治療だ。先の朗唱には確かに面喰らった。だが、ジェレマイア君、私が麦酒をご馳走になる間、汝らが植民地でいかなる知識を得たか、聞かせてはもらえないか? ぜひとも旅の話をお聞かせ願いたい。これ、よろしいかな?」。牧師はそう言いながら、麦酒の大容器《ピッチャー》に手を伸ばした。
 「どうぞご自由に、牧師殿。わしは実際、多くのことを学びました。より正しい座標を地球に描く方法を今、論文にまとめているところです。ヴァージニアで木の下に座っていたとき、林檎が頭に落ちてきました。皮を剥こうとナイフを手に取った瞬間、閃いたのです。赤道上の一点から一定の角度で或る距離を取れば、地球上の任意の点に到達できる。そのときをきっかけに、わしは緯度と経度という概念を完全に放棄しました。わしは今では、地上のすべての点を赤道上にある原点からの角度と距離によって定めています」

月球、はるかなり
道を定める地図
時の手は嘘をつかざり

「ジェレマイア君、その考え方は随分と道を外れているよ」。牧師はメイスンの発言を無視し、雲雀の布甸を口に入れた。「第一に、グリニッジから南に線を引いて赤道と交わる場所は海のど真ん中で、計測に便利な起点とはなり得ない。第二に、その角度とやらが規定する等角航路は極に無限に近づく渦巻き線になる。まさに航程線だよ」
 「失礼ですが、私の理論では、グリニッジは真の起源から外れた一つの点に過ぎません。地球の起源はエデンの園、あらゆる生命の源を原点として定めるべきというのが私の信念です。神はそれを赤道上の、アビシニアの何処《いずこ》かに置かれた。私の方式は、船乗りの間で堕落の中心として名高い土地ではなく、神の図面に基づいて規定されているのです」

「大洋に失われた哀れな魂は
時計に時を見いだす
そして特定される現在地」

 「ジェレマイア君、人類の起源が阿弗利加《アフリカ》にある、あの野蛮な大陸、異教徒の暮らす大地にあるなどと言うのは狂気ですぞ。済まぬがその麦酒をもう少しこちらへ回してもらえぬか。どうやらその林檎は随分と重量があって、かなりの重力でもっておつむに当たってしまったようにお見受けする」
 「欧州以外の土地に住む異教徒たる先住民の存在に目をつぶるのが世の流儀のようですね。しかし私は知りました。亜米利加大陸の先住民は人類の中で最初に阿弗利加を離れた集団なのです。彼らは航程線に沿って蒙古の草原を横切り、北極にたどり着いた。すべての航程線はそこに至るからです。その後、彼らは数学的にありえないと思われる芸当を成し遂げ――恐らくは第四の次元を通って――亜米利加大陸に渡った。“野蛮人”と蔑まれている彼らですが、実際には我々の理解を超える経験と知識を有しています。それは途方もない旅の賜物《たまもの》なのです。わしはこの先、国会議員に立候補し、亜米利加大陸先住民の代表を務める所存です。いつか、すべての人が法の下で平等となる日がやって来ることでしょう――神の目にそう見えているように」

「雲に隠れた星々
私は時計を見る
歴史がすべてを裁くであろう」

「ジェレマイア君、君が政治を志すとは大変意外だ。しかし、君の考え方が王の偉大なる帝国において支持を得るとは思えない。汝らお二人は旅で随分と変わられたようだ」

「月は狂気を呼ぶ
時の経過を見よ
すべては褒美を得んがため」

「本当に随分と変わられた。特にメイソン様は。しかし、残念。もはや布甸もなく、麦酒も空っぽ。もっとお話をしたい気持ちは山々なれど、明日の朝にはジョージ王との謁見があるゆえ、これにて失礼。さらばだ、殿方」
 牧師が去ると、メイスンが空になったピッチャーを取り、給仕にお代わりを注文した。「なあ、ジェレマイア、まったくハリソン君の言う通りじゃないか。あの牧師はユーモアを解さぬただのお喋り屋だな」
 「その通りだな、チャールズ。しかも、財布の堅さと来たら、女将のコルセット並み。他人のビールを飲むだけ飲んで、空になった途端に消えた」
 「しかし、航程線云々という先の法螺話、あれは聞き応えがあった。あの男をぎゃふんと言わせるのは、ハリソン君の時計を巻くのと同じくらいたやすい。政治と散文詩でいちころだからな」
 「“法螺話”? 汝は|巫山戯《ふざけ》ていたのかしらんが、わしの話はすべて本気さ」

【訳者解説】

「政治と散文」(九月二十三日公開)について
 「政治と散文」というフレーズは『BE』一〇六頁に出て来る。内容は『メイスン&ディクスン』の設定を借りた短編。チャールズ・メイスンとジェレマイア・ディクスンはアメリカでいわゆる「メイソン=ディクソン線」の測量を終え、英国に戻ったところ。メイスンは小説中ずっと、亡き妻レベッカを思い続ける。ネヴィル・マスクラインはメイスンのライバルの天文学者で牧師。王立協会(または英国学士院)は英国最古の、権威ある科学研究の学会。ジョン・ハリソンは時計職人で|経線儀《クロノメーター》の発明者。
 ヒバリ入りのプディングは百五十年前の料理として、レシピがこちらのHP(http://victorianstories.blogspot.jp/2009/10/202-lark-pudding.html)に紹介されている。
 柴田元幸さんの翻訳をまねようと努力したのですが、とても難しくて、中途半端な文体になってしまいました。

(了)


2013年10月8日火曜日

トラフィックを増やすには



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

トラフィックを増やすには
(http://www.hashslingrz.com/build-your-traffic)

 ハンドルをぐいっと引くと前輪が縁石を跳び越え、後輪が横向きにスリップし、自転車が停まる。彼は自転車を街灯に鍵で固定し、マンハッタンの繁華街にある食堂に入った。ニューヨークの街路は、エド・ガンダーソンの人生における涅槃《ニルヴァーナ》だった。彼の夢は子供の頃にさかのぼる。テキサス州オースティンで最速の新聞配達気取りで自転車を駆り、住宅の裏庭フェンスの隙間を抜け、郵便受けに新聞を放り込み、自転車メッセンジャーとしての未来を夢見た。ロウワーイーストサイドのワンルームアパートに暮らしながらも、気分は上々だった。エドにはメッセンジャーの仕事が本当に合っていた。マディソン街に一マイル連なるタクシーの列を蛇のように抜ける最短コースを本能的に見つけ、ミッドタウンマンハッタンにある全ての信号が変わるタイミングを記憶し、バスの間を縫い、歩行者と車のドアを避け、ベーグルをがっつくのに忙しい交通整理の警官に見とがめられることもなかった。
 今日の彼は大きなチャンスを手にしていた。|自転車代替輸送企画《WASTE》の代表、マセラティ氏との面接。エドの才能に目をつける人物が現れたのだ。マセラティ氏は返信のできないある|ショートメッセージシステム《SMS》を通じて彼に連絡をよこし、街中にあるこの食堂での面接を持ちかけてきた。会社の所在地や電話番号といった詳細は秘密らしい。街の噂によると、WASTEはテクノロジー関係の会社を相手にするメッセンジャー業者としては最大手のようだ。つまり、最近いちばん金のある連中と取り引きをしているということ。
 エドが店に入るとウェイトレスが振り向き、ほほ笑んだ。「マセラティさんがお待ちよ。ジュークボックスの横のテーブル」
 「ありがとうございます」。彼は店の奥のジュークボックスに向かった。マセラティ氏は信じられないほど細身で、トーストしたホイペット犬のように、こんがりと日焼けした肌がぴんと引き締まっていた。彼は大きく腕を振って向かい側の椅子を指し、エドに座らせた。
 「君のことをしばらく前から見させてもらった。ひょっとすると君は、私たちが求めているメッセンジャーかもしれない。仕事《トラフィック》を増やす気はあるかね、ガンダーソン君。そのお手伝いをさせてもらおうかと思うのだが。準備はできるかな?」
 「朝の準備の話ですか? まずは自転車を点検します。チェーン、タイヤ、スペアチューブ、もろもろ。それから天気予報のチェック。雨になりそうなら雨具を用意します」
 「いや。そういうことじゃない。それはアマチュアのやる準備だ。ゾーンでメッセンジャーをやる場合の準備はそういうことではない。やり方が違う。うちでは準備の仕方がメッセンジャーとしての――“チクリスタ”としての――仕事を決める。だから、準備の仕方を学んでもらわなければならない。いいかね。うちのライダーはヨーロッパ出身者が多い。トラックレースをやっていた元プロの連中は準備の仕方を心得ている。パウロはイタリア人で保守的だから、アンフェタミンとカフェインが専門だ。しかし一時間に六杯のエスプレッソを飲んでるおかげで、彼には夜遅くまで仕事を頼める。アーノルドはミュンヘン出身。ロデオの雄牛よりも筋骨隆々で、毎日コルチコイドステロイド注射をしているから、重い品物の配達なら彼にお任せだ。ゲルハルトはアムステルダム出身。混合薬物《ポット・ベルジェ》が専門。前の日に街角で買ったものが何でも、翌日にはポットの具材になる。コカイン、興奮剤《アッパー》、鎮静剤《ダウナー》、種類を問わず鎮痛剤、ケタミン、ペントバルビタール。何でもありさ。ゲアハルトならサウスブロンクスの犯罪最多発地帯にでも送り込める。誰一人として彼には手出しをしようとしないからね」
 「マセラティさん、俺は薬物はやりません」
 「結構結構。その気持ちは分かる。問題ない。清く正しく生きるアメリカ人青年というわけだな。じゃあ一つ、特別な仕事があるぞ。薬物は無関係だ。いいか。テクノロジーの業界ではデータを守ることが至上命令になる場合がある。A地点からB地点にデータを送るとき、普通は電話線を使う。現代のコンピュータがやっているのはまさにそういうことだと言っていい。しかし、インターネットでデータがどの経路を通るのか? これはコントロールできない。だからデータを暗号化する必要が出てくる。それでも、通信を傍受する権力を持った連中が、解読する能力も併せ持った場合どうなるか? 傍受と解読をできるやつらに、データを送ったという事実さえ教えたくない場合、どうする? 唯一安全な解決策は空隙《くうげき》を作ること。A地点でデータを取り出し、電話線上で検知されることなく、離れた地点まで運び、そこで解読。コンピュータ科学者は最近、“今はビッグデータの時代だ”などと言いつのっているが、ビッグデータは昔から私たちのすぐそばに、いや、もっと正確には私たちのにあった。ヒトのDNAの内部にどれだけの情報が含まれているか、知っているかね? たった一グラムの中に七百テラバイト。ハードディスクドライブにそれだけの情報を書き込んだとしたら、運ぶのにトラックが何台も必要になる。われわれは遺伝子的な指示書きの力を利用させてもらうのだ。真っ昼間にニューヨークの街中で巨大なデータを運んでも、誰の目にも留まらない。まず、君の血液を一リットルほど取り出す。後日、君には自分の血液を注射で戻す。君の染色体内の、使われていない部分のDNAを組み換え、そこにデータの中身を入れておくのだ。データは運び人の目にも見えない。受取人のところまでデータを運んだら、また一リットルの血液を取り出す。元の血液が少しでも含まれていればそれで充分。それだけで何ペタバイトものデータが運べる。報酬はかなりなものだし、薬物とは無縁だ。その上、ラッキーなボーナスまで付いてくる。君が運ぶ荷物は――つまり一リットルの余分な血液のことだが――酸素消費の閾値《しきいち》を上げ、輸送作業を楽にしてくれる。君の荷物はいわば、マイナスの重さを持つということ。君なら史上最速のメッセンジャーになれるだろう」
 「ええ、先ほども言いましたが、薬物はなしということで。でも、分かりました、マセラティさん。俺は速くなりたい。最高のメッセンジャーになりたい」。エドは契約成立の印として握手をしながら考えた――この約束によって俺は成功するかもしれないし、駄目になるかもしれない。ひょっとしたらその両方かも。そしておそらく郵便システムは今後、これまでとはまったく違うものになるだろう、と。

【訳者解説】

・「トラフィックを増やすには」(九月十七日公開)について
 タイトルは『ブリーディング・エッジ』三四九ページに登場する表現。ストーリーは、脳に埋め込まれた記憶装置を使う情報運び人を主人公に据えたウィリアム・ギブソンの短編「記憶屋ジョニィ」、あるいはその映画化『JM』を思い起こさせる。
 主人公エドの下敷きとなっているのはテキサス州出身の元自転車プロロードレース選手、ランス・アームストロング(一九七一- )。彼はツールドフランスで七連勝したことなどで英雄視されていたが、二〇一三年初頭に現役時代のドーピングを認め、スキャンダラスな話題になった。彼は三歳のとき、母が再婚して、アームストロング姓になったが、生まれたときの名はランス・エドワード・ガンダーソンだった。マセラティはイタリアのスポーツカーメーカーを意識しての命名か。
 WASTEは『競売ナンバー49の叫び』に登場する秘密の郵便組織の略号。『重力の虹』では、第二次世界大戦が終わった直後、分割占領下のドイツが「ゾーン」と呼ばれる。
 「トーストしたホイペット犬」というのは、ツールドフランスを走る、無駄のない体格で日焼けした選手らを指す決まり文句。筋肉むきむきのアーノルドはアーノルド・シュワルツェネッガーを念頭に置いていると思われる。事前に採取していた自身の血液を競技直前に輸血して、持久力などを高める方法は「血液ドーピング」と呼ばれ、スポーツ界では禁じられている。


(了)


2013年10月2日水曜日

ベーグルが足りない



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

ベーグルが足りない
(http://www.hashslingrz.com/bagel-deficiencies)

 胸に響く超低周波の振動が大地を揺らし、高温の白い炎が横に噴き出した。まるで太陽がついに地球と衝突したかのように。しかし次の瞬間、静寂。マリー・ガンマーは、これまでに記録された推力《スラスト》の最高値を期待しながら、推力計に取り付けられた自動記録器をチェックした。安定した持続的燃焼を示す直線のグラフ。これだけの結果が得られればロケットダイン社は、アメリカ合衆国最初の衛星を軌道に打ち上げる計画に復帰できる。一日の始まりとしては完璧な成果だ。とはいえ彼女は今日も、また別の“専門家”と呼ばれる精神科医と会い、くだらない検査を受けなければならない。他のセキュリティーがらみの面倒な手続きと同様に、こうした検査には切りがなく、面倒なことこの上ない。
 マリーはオフィスのある建物に行き、陽気な足取りで面接室に向かった。部屋の前の受付には若い女が座っていた。分厚い化粧。ふっくらと逆毛の立った髪型。忙しそうにマニキュアを塗っている。
 「グロスマン先生と予約をしている者ですけど」
 「“来たらすぐに通しなさい”と言われてます」
 部屋に入ると、グロスマン医師が床で、実物大に作られた牛のジグソーパズルらしきものを組んでいた。それぞれのピースには、“|腰肉《ショートロイン》”、“|肩バラ肉《ブリスケ》”、“|脇腹肉《フランケ》”といった部位の名が記されていた。彼の足下には別のカードが一組置かれており、いちばん上のものには“統合失調症《スキゾフレニア》”と書かれている。グロスマン医師は今からパズルのピースとカードの組み合わせを作ろうとしている。彼女はそんな印象を受けた。
 「ああ、カードが気になります? 今、牛のどこの部位を食べたかということと精神病との関係について研究をまとめているところなんです。私はキャリアの出発点として例の変人、フロイトに弟子入りしました。フロイトとその追従的な弟子どもは皆、精神《プシケ》の源は性《セックス》だと信じています。母の乳房を吸う赤ん坊。彼はそこにフェラチオを見る。便秘の|子供《ピツェラー》が小児用便座にまたがる。するとフロイトは、その子が何年か後に肛門性交《アナルセックス》を求めると言う。あなた、小児用便座を使ったことは? アナルでやってみたいと思います?」
 「え、あ、いいえ……でも、ここへはそういう相談で来たんじゃありません」
 「ええ、違うと思いました。私は以前、彼の話を何でも聞いて、信じていました。ヒトラーが現れるまでは。彼はその後、ロンドンに逃れ、さらなる名声を得た。かたや私には金がなかった。私はナチスの強制労働収容所で三年を過ごしました。ろくに食べるものもなく、骨と皮になった。しかし、貧窮と飢餓の中で突然、ひらめいたんです。真に精神を突き動かす源を私は発見した――食べ物ですよ。ペニスじゃない。連想テストで具体的に説明することにしましょう。果物といえば?」
 「洋梨」
 「あなたは自分の体型について悩んでいます。では、チーズは?」
 「リンブルガー」
 「チーズの好みを無意識のレベルで決定しているのは母親の乳房です。お母様は不衛生で、体臭の強い方だった。朝食」
 「ベーグル」
 「これは予想外の答えだ。興味深い。ひょっとして、ユダヤ系の方なのかな。他人を食べさせていかなければならないという衝動をお感じになる? この点はもっと詳しく調べる必要がありそうだ。ベーグル」
 「足りない」
 「“ベーグルが足りない”? ベーグル屋の組合がまたストライキでもやっているんですか?」
 「“ベーグル”っていうのは、私の研究チームが開発した新しいロケット燃料の名前です。六十パーセントがジメチルヒドラジン、四十パーセントがジエチレントリアミン。それを液体酸素LOXと混ぜる。つまりベーグル&塩鮭(lox)」
 「ああ、なるほど。サーモンとクリームチーズ入りのベーグルね。私もあれ、大好物です」
 「でも、軍の連中の意向で“ハイダイン”と改名されることになりました。将軍と呼ばれる人たちって本当に傲慢で自己中心的。一緒にいると、こっちに何かが足りない気がしてくる」
 「ベーグル、サーモン、クリームチーズ。最高じゃありませんか。手の届かぬ理想を持ち続けることです、ガンマーさん。頭のおかしな男どもなど放っておきなさい。私はそういう連中を今までにたくさん診察し、慢性的なソーセージ羨望の症例をいくつも発見しました。死に至るケースだってある。アメリカ人の場合、体ばかり大きくて頭が空っぽな父親が野球を見ながら大きなブラートヴルストを次から次に食べてたりするでしょう? その横で子供らが小さなナックヴルストを食べている。それがしばしば、子供の心の中に精神の病や恐怖心を生む原因になる。そんな子が大人になると、ブラートヴルストという魔物を追い払うために巨大なロケットを求めてしまうんです。でも、あなたは正気でいらっしゃるから、もうお帰りになって結構ですよ」
 マリーはもう一度促されるまでもなく、すぐに部屋を出た。

(故ロケットガール〔http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Sherman_Morgan〕にお詫び申し上げます)


【訳者解説】

ピンチョンの 『ブリーディング・エッジ』には、警官たちが近所にベーグル屋がないと文句を言いながらカフェに入るという一節がある(二頁)。タイトルはそこから取ったもの(今回は、訳者が提案して書いてもらったもの)。
 中身はロケット燃料開発と精神分析の変種という、まるで『重力の虹』から引き写したような設定だ。ガンマー(Ganmor)はモーガン(Morgan)のアナグラム。つまり、「ロケット・ガール」とあだ名された実在の女性ロケット研究者、メアリー・モーガン(一九二一-二〇〇四)という人物が下敷きになっている。ここにも訳出したが、短編末尾には故人に向けて、「からかうような書き方をして申し訳ない」という意味で記されたと思われる謝罪文が添えられている。ロケットダインはアメリカ合衆国の液体燃料ロケットエンジンの主要な設計製造業者として実在し、モーガンは第二次世界大戦後、この会社に入り、ハイダインというロケット燃料(その組成は本文中の説明にある通り)を開発した。
 「子供」という意味の pitseler 、「頭がおかしい」という意味の meshugeneh などはイディッシュ(ユダヤ系の人が使う言語)なので、この言葉を発する精神分析医がユダヤ系だと分かる。「リンブルガー」はベルギー産の、香りと味の強い熟成チーズ。日本人にとっても珍しいものでなくなったベーグルは元々ユダヤ人が食した伝統的なパンで、「ベーグル」というのもイディッシュの単語。「ブラートヴルスト」はドイツ系移民がアメリカに伝えたソーセージで、日本で言うフランクフルトのようなもの。「ナックヴルスト」(またはクナックヴルスト)はパキッという食感の太くて短いソーセージ。
 お題を出されてからわずか三日で書き上げたこの短編でいちばん凝っているのは、液体酸素(LOX)と塩鮭(lox)を駄洒落にして、ロケット燃料の開発コードを「ベーグル」と設定しているところだ。「液体酸素」をお題に出されてこのネタを思いつく人はいるかもしれないが、「ベーグル」という単語からこの話を思いつく作者はすごい。

(了)