2014年5月23日金曜日
図書館で調べ物
図書館で調べ物
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ハッシュスリンガーズ著 于淼・木原善彦訳
フィリス・コーマックがバスから降りると同時に、エアブレーキのバルブが解放され、いきなり耳障りな音が鳴った。びっくりして、ぐっと飲んだコーラは鼻に入ってしまい、まるで針が頭をちくちく刺すように泡が破裂した。彼女はむせてチェリーゼロを道に噴き出した。頭がすっきりしないうちに、突然パトカーがバスの隣を勢いよく通り過ぎ、サイレンがかなり近い距離で悲鳴を上げ、彼女は反射的に身を屈めた。まるで歩道に下りてきた低空飛行のジェット機を避けるみたいに。
フィリスは宿題と同じぐらい、街中が嫌いだった。それはつまり、土曜の朝の家事――部屋の掃除をしたり、さらにひどい場合は猫の皿を洗ったり――よりも嫌いということだ。生物の宿題はいつも同じパターン。高校の教科書には何も役立つ情報が載っていないような漠然としたトピックについてエッセイを書けというものだ。ただし、今回に限っては彼女が悪い。トピックを選んだのは彼女自身だったから。
大学キャンパスの図書館に行って助けてもらいなさい、と提案したのは母だった。フィリスは騒がしい学生たちの間を縫って、図書館へと向かった。建物の外観はただの巨大なガラスのドームで、図書館のようには見えない。彼女が中に入ると、通りの騒音が急に止み、聴覚域の急激なシフトが起きて、次第にキーボードを打つかちっという音や、木に似せた樹脂製の床タイルを踏む靴の踵の音が聞こえるようになった。
学生たちはフィリスより年上だった。彼女には、学生たちが新入生なのか上級生なのかを見分けることはできなかったが、皆、すましていて、自信満々に見えた。それで彼女は萎縮した。いつか入ろうと願う大学のこの第一印象から、彼女は大学に拒絶されることしか想像できなかった――だって私はニキビが多すぎるし、履いている靴が間違っているし、ふさわしい音楽を聴いていないから。
彼女はそんなネガティブな考えを脇によけ、やるべきことに集中した――どうしてクジラが浜辺に座礁するのかについての情報を集めなければならない。本棚は一つも見当たらず、長いデスクの列とコンピュータ端末があるだけだ。本だって一冊も見当たらない。ここは本当に図書館? それとも机と学生を栽培する温室? 彼女は部屋の真ん中にある司書のカウンターと思しき場所へと向かった。
名札にミス・オードントシーティと書いてある、眼鏡をかけた小柄な老婦人がカウンターに立っていた。灰色のきつすぎる洋服から腕と腰回りの贅肉がはみ出し、動くたびにナイロン製の下着とこすれていた。セイウチのように首回りの脂肪が揺らいで、ボヨンボヨンと音を立てていた。
「すみません。海洋環境とクジラに関する宿題が出たので、多分ここに……あの、本とか何か役に立ちそうな資料があるかと思って……」
彼女は眼鏡越しに見つめながら、「あなたはここの学生?」と鼻を鳴らして言った。
「ええと、違います……。でも、貸し出しは必要はないんです。ノートとペンを持ってるので。棚に並んでいる本を見たかったんです。ただ、本棚が見当たらないので。ここは本当に図書館ですか? 外の壁には大きく図書館と書いていましたけど」
「いいですか、お嬢さん。あなたがいるすぐ下に数百万冊の本、雑誌、会議の議事録が置いてあるんです。地下は六階あって、棚は全て合わせると五十フィートの高さになります。本を下から持ってくるためには、自動倉庫システムを使うの。自律型無人潜水機のように、見えないロボットたちが走り回っています。でも、ここはラテを飲みながら悠々と拾い読みするような本屋とは違う。まず検索のためのキーワードが必要です。あなたの宿題は何?」
「どうしてクジラが浜に打ち上げられるのかを調べなければいけないんです。私はケープコッドにバカンスに行ったとき、打ち上げられたクジラを一頭見ました。それからカナリア諸島に打ち上げられたたくさんのアカボウクジラの記事を読んで、マダガスカルの二百頭のカズハゴンドウ、オレゴン州のマッコウクジラ、あとはフロリダの……」
「分かったわ、お嬢さん。私はこれまでいくつか、そういうことに関連した団体で働いてきました。簡単には答えられない質問もあります。さっき言ったように、私たちはここで何百万もの出版物を取り扱っていますが、あなたの足下の文献はホワイトな文献で、索引がつけられていて検索が可能です。しかし、このような文献は世間に害のない事実しか含んでいない。つまり、彼らが世間に見せたいと思っている情報ということ。あなたはもっと深い場所に埋められている事実をお探しですね。よく聞いて。あなたにはただでこれを教えてあげましょう。エイハブ船長はピークォド号とともに深く静かな海に沈みました。ところが今、海は耳障りな音に侵されています。モビー・ディックは日々、海の中を伝わってくる音によって攻撃を受けているのです。ヘリコプターや飛行機がソナーを落としたり、駆逐艦がソナーを引っ張ったり。石油やガスの測量船が海底に向けてギャーギャーと音を出したり。岩床に固定された風力発電の鉄塔からもビュッビュッビュッと音が出るし、巨大タンカーの周りにできた空洞水流からディーゼルエンジンのピストンの音がドシンドシンと響いたり。権力を持った利害関係者たちは環境へのダメージをホワイトな文献から隠すためにできる限りのことをしているのです」
女は話しながら段々と身を乗り出してきて、近くの空港で離陸するジャンボジェットの轟音の中でも聞こえるよう、徐々に声を上げた。異常に低く飛んでいるため、ジェット機のエンジン音がフィリスの胸の中で轟いた。
「でもねお嬢さん、あなたがしたような質問の答えは、たまに別のどこかに漏れ出ているものですよ。普通の出版物から獲得できない情報の中、つまり目録や索引付けがされていない書物なんかにね。つまりグレーの文献というものです。技術草案報告書、科学研究グループのノート、調査報告書から非公式なメモ、日記、船員からの手紙、これらの書物は政府や米国国防総省、産業界から支配されていないのです。そのようなグレーの文献を探したらもっと真実に近づけます。一歩手前まではね。でも、もしあなたが真相を知りたいならば、さらにもっと深いところへ飛び込まなければなりません。ブラックな文献――ロシア人が“地下出版物”と呼んでいたような文献――にまで分け入らないとね。そこまで行けば、彼らが隠したがっている危険な事実が見つかります。機密情報は厳重に守られているから、書き写したものを持っているのが見つかったりしたら命に関わりますよ」。フィリスのすぐ耳元でミス•オードントシーティさんは囁いていた。あのジェット機はもう過ぎ去っていた。
「本当に、恐ろしい話ですね……。私はただ宿題をしたいだけだったのに……。あの、もういいです。帰っておじいちゃんに聞くことにします」。フィリスはめまいがし、吐き気に襲われた。
フィリスのすぐ後ろで、小ドラムと大ドラムのクラッシュの音、ギターのリフがマシンガンのように聞こえた。騒音に混じって“畏怖の海”と“CIA”という歌詞の断片が聞こえた。振り返ると、すぐそこにレディオヘッドのTシャツを着ている学生が立ちはだかっていた。首に巻いたヘッドフォンから音楽がほとばしってくる。耳がおかしくなる音量だ。びっくりした彼女は立ち止まり、その学生の顔をじっと見つめた。
「ベイビーは|潜水病《ベンズ》」。彼はゆっくりと言った――あたかもその歌詞に何かの意味があるかのように。フィリスは逃げ出した。
【訳者解説】
らしい短編。
「鯨はなぜ(自ら)浜辺に打ち上げられるのか?」というのはかなり前からある謎で、ウィキペディアの「座礁鯨」の項目にある通り、決定的な答えが見つかっていません。潜水艦の発するソナー音が原因だという人もいて、米国海軍がそのような事例を認めたこともあります。やや陰謀論的な見方に従えば、そういうケースの多くは有力者によって隠されていて、普通のメディアは報じないけれども……という話になっていますから、グレーの文献を見なければ真実には近づけない。
ちなみに、よく知りませんでしたが、「グレーの文献」「灰色文献」というのは実際に図書館に収蔵することが検討され始めているようですね。一見、この短編にあるような怪しげなものではなさそうですが、確かに面白そうな領域です。
短編の結末で、レディオヘッドの歌「ベンズ」が登場します。歌詞の意味は漠然としています。とりあえず、「ベイビーは潜水病」というのが作品の締めくくりとなっていて、主人公の女の子が“ディープ”な情報に触れてめまいと吐き気を覚えているのが「潜水病みたい」という落ちになってます(たぶん)。潜水病は「減圧症」とも言い、「身体の組織や体液に溶けていた気体が、環境圧の低下により体内で気化して気泡を発生し、血管を閉塞して発生する障害の事」。なので、冒頭でチェリーコークがプシュッとなるのも前振り。また、(特にダイビング後の)飛行機での減圧などが引き金になることもあるそうですし、「ベンズ」の歌詞にも飛行機が出てくるので、結構、細かいネタ同士が絡み合っています。
ミス・オードントシーティ(Odontoceti)は妙な名前です。あまり英語っぽい綴りには見えませんが、英語で「歯鯨」のこと。『白鯨』うんぬんについては説明を省略……。
ハッシュスリンガーズさんの短編は、楽しみ方がいろいろあると思いますが、私自身は「ここって机と学生を栽培する温室?」みたいなちょっとしたお遊びもかなり好きです。
(了)
2014年5月16日金曜日
マフィヤ
マフィヤ
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V.D.著 安保夏絵・木原善彦訳
レイ・スナーロウは東アトランティスモールの駐車場に入り、『生きて、働いて、そして遊ぶ!』と書かれた看板の下に車を停めた。
「遊ぶなんて、いつの話になるのかしら…」と彼女はぼそっと呟いた。「シフトマネージャーになるまでは無理。この町は家賃が超高いから」。まるでモノクロの虹のように並んだ動かない車の横をすり抜けながら、彼女は今日も平和に終わるようにと祈った。
そのショッピングモールの前世は工場で、テナントに入っている“ホットトピック”の真上の位置に給水塔が残されたままである。建築途上のトローリースクエアといった風情。最年長の警備員、ハルによれば、その給水管は大昔からあるらしい。わしも同じくらい昔からここにおるけどな、というのが彼の口癖だ。レイはよく十五分の休憩中に、ハルと話をした。彼女は雨や風を気にせず、非常階段の下でこっそり、ナットシャーマンのピンクの煙草を吸った。目立たないように吸ってはいても、やはり気になった。ピンクの煙草はあまりにも目立つ。そうでなくとも、誰かに気付かれるかもしれないけれど……。
永遠の若者向けに手を抜いて作られた服を販売する『フライイング・アウル』で、レイの勤務はごくごく普通に始まった。彼女は、従業員の行動のうち数量化できるものすべてを会社の奥の奥にある中央基地に報告する機械に、自分の社員番号を打ち込んだ。勤務が始まると一通り、数字のチェック。昨年同日の売り上げ、その+8%という本日の売上目標。今週の販売促進製品の確認。それが終わると、彼女は店の入り口に立ち、挨拶をした。
こんにちは。
ハーイ。
今、お客様がご覧になられているシャツのお色違いで黒いのが、奥にございます。どうぞお立ち寄り下さいませ。
本日イヤリング全品、なんと2つで15ドル。
素敵なシューズですね。どちらでお買いになりました?
こんにちは。
ハーイ。
これが十五分休憩まで続く……。
ハルは今日、非常階段の下に居なかった。代わりにアリアナがいた。彼女は“レイシー・ステイシー”のシフトマネージャーで、上品にカプチーノをすすっていた。レイは彼女を嫌いたかったが、そんなことはできないと自分でも分かっていた。レイは時々、“レイシー・ステイシー”の店を訪れた――これはずるをしているわけじゃなくて、ライバル店の様子をチェックしているだけ、と自分に言い聞かせながら。カウンターの向こうにいるアリアナは人造宝石をまとい、艶のあるブロンドヘアーが金の液体となって顔を縁取っているように見えた。手はまるでピアノで協奏曲を奏でているかのように抵抗なく滑らかに動き、靴下やシャツの金額をレジに打ち込んでいるようには見えなかった。要するにお店にいる時のアリアナはいささか美しすぎるのである。 しかし、今この瞬間の彼女は眉間にシワを寄せていた。
「どうしたの?」とレイは尋ねた。
「ハルからあなたがよくここに来ると聞いて」と彼女は言った。
「私を探していたの? どうして?」
「ここはなんかおかしい」とアリアナは言った。
「おかしい?」
「そうよ。その通り。」
レイはぽかんとしながら彼女を見つめて言った。「ん?」
「あなたは何かおかしいと思ったことは一度もないの? 怪しいことが行われてるって。密かに」
「ない」とレイは言った。
「このショッピングモールはよそと違う」とアリアナが続けて言った。
「よして」とレイが遮った。「以前、そういう妄想の話を一度だけ聞いたことがあるわ。モールの従業員としてのプライドが原因。従業員が休暇を取らない時にかかるビョーキみたいなもの。DSM(精神障害診断マニュアル)にも載ってる。調べてみて」。いくら美人でもパラノイアは勘弁してほしい、とレイは思った。
「あなたは分かっていないんだわ。あいつのオフィスがここにあるの。例の建築家。もし行けるものならそこに行って、昇進させてもらえるように頼もうかと思うんだけど。まあ、見てて」
しかし、レイはアリアナが本当は何を言いたいのかを確かめる時間がなかった。休憩時間が終わった。「えーと、それじゃまたね」
レイが多すぎるコーヒーを飲み、カンパオチキンを食べている間に、一日の残りが過ぎた。
その日の晩、レイは再びパウェイの夢を見た。暗闇から現れたのは砂漠州でも、|死者の国《サイバラ》でもなく、(少なくとも彼女にとっては)どこでもない世界だった。そこにはレイの妹、ジェニファーがいて、トイレのドアを開けたまま灯りを消して便座に座り、電話の相手にぶつぶつと言っていた。「奥様、そのご注文は承りかねます」
会話が途切れたところでレイが言った。「ここから出て、喫茶店にでも行きましょう。グルテン抜きのクロワッサンか何かを食べない? 私は失業中で、あなたは働いている。でも、別に二十ドルくらいなら私にでも払えるわ」
ジェニファーは初め、何の反応も見せなかったのだが、結局は折れた。「そうね。ちょっと考えさせてちょうだい。食べるなら最高のものじゃなくちゃ。姉さんも知ってると思うけど、シナモンと大麻仕立てのスフレとか、山羊乳チーズで作ったファッジにベリーソースをかけたのが私は好きなのよ」
レイは車があるかどうか確認しにガレージへ行こうと階段を降りる途中で母親に引き留められた。
「おばあちゃんがチョコレートを送ってくれたわ」と彼女は言った。「一緒に食べましょう」。チョコレートはゴルフボールくらいの大きさで、茶色い粉砂糖がまぶしてあった。箱がたわんでいた。チョコは三列。その様子はオペラの客席を思わせた。
「ダイエット中だからどうかな」とレイは言った。
「え、ダイエットよりもこっちの方がいいわよ! 飲み込んだ後、十分か十五分したらまた吐き出せばいい。そしたら妖精が現れるのよ」
実際にやってみようと、レイは二階に箱を持っていき、一粒だけチョコレートを食べた。頭の中が妄想でいっぱいになった。「さあ、どうしよう」。まずは妖精にダンスを教えよう。決まり切ったパターンで振りを揃えるのがいい。きっと、YouTubeで注目を集める。なんとかダンスをこなし、腕を振って少しだけ脚を動かしていると、レイはザ・ルミニアーズが『Ho Hey』を歌う野外コンサートに移動していた。適当に集まった二十人ほどの客とレイだけのために催されたコンサートだ。その後、野外でQ&Aコーナーが始まったが、内気なレイは何も質問することができなかった。その次にはポメラード通りから少し入ったツインピークス通りを歩いた。町に義務づけられた景観用の緑、木々の間を走る真っ赤な血管。それはまるで、メッセージを運んでいるかのように脈打っていた。そして低木。コンクリートの道が蛇のようにくねくねと続く。レイはもう一度メリンダを探さなければならないと思った……と、そこで夢が終わった。
次の朝、再びショッピングモールの更衣室で着替えを終えた彼女は、働き始める前に心を決めた。「今日の休憩時間はメープルシロップを休憩中に食べよう。アリアナもきっと欲しがるわ」
【訳者解説】
今回の短編はいつもの著者ではなく、V.D.さんがハッシュスリンガーズのサイトに投稿したものです。
なので、いつもと雰囲気が違う。というか、(続けて読んでくださっている方々には申し訳ないのですが)どうにもよく分からないところがあって、翻訳としても微妙な仕上がりになってしまっている気がします。担当の学生(共訳者)もかなり苦労したようですが、私もちょっともやもやが残っています。
作中、アリアナさんが、いつも変わらぬモール勤めで妄想を抱き始めている(あるいは、本当にこのモールには裏があるのかもしれない)というところまでは『ロット49』みたいな陰謀/妄想ネタだからよく分かるのですが、帰宅した後に見る夢が私にはちんぷんかんぷんです(夢だから当たり前、と腹をくくる手もありますけど)。で、翌朝の「今日の休憩時間はメープルシロップを食べよう」という決意に、夢がどうつながるかも不明。
ともあれ、こういう味わいの短編があってもいいと思ったので、やっぱりここに掲載することにしました。どなたか、解釈のお知恵があれば、ツイッター(@shambhalian)でお知らせくださると幸いに存じます。
なお、次のようなものはすぱっと分かったアイテムたちです。
・タイトルの「マフィヤ(Muffya)」はマフィア(Mafia)の異綴として『ブリーディング・エッジ』に出てきます。すけべな駄洒落になっていますが、教育上の理由で省略(答えはこちらをご覧ください)。
なので、いつもと雰囲気が違う。というか、(続けて読んでくださっている方々には申し訳ないのですが)どうにもよく分からないところがあって、翻訳としても微妙な仕上がりになってしまっている気がします。担当の学生(共訳者)もかなり苦労したようですが、私もちょっともやもやが残っています。
作中、アリアナさんが、いつも変わらぬモール勤めで妄想を抱き始めている(あるいは、本当にこのモールには裏があるのかもしれない)というところまでは『ロット49』みたいな陰謀/妄想ネタだからよく分かるのですが、帰宅した後に見る夢が私にはちんぷんかんぷんです(夢だから当たり前、と腹をくくる手もありますけど)。で、翌朝の「今日の休憩時間はメープルシロップを食べよう」という決意に、夢がどうつながるかも不明。
ともあれ、こういう味わいの短編があってもいいと思ったので、やっぱりここに掲載することにしました。どなたか、解釈のお知恵があれば、ツイッター(@shambhalian)でお知らせくださると幸いに存じます。
なお、次のようなものはすぱっと分かったアイテムたちです。
・タイトルの「マフィヤ(Muffya)」はマフィア(Mafia)の異綴として『ブリーディング・エッジ』に出てきます。すけべな駄洒落になっていますが、教育上の理由で省略(答えはこちらをご覧ください)。
・ホットトピックというお店は、音楽・ポップカルチャー関連の服やアクセサリーを売る大手のチェーン店。
・トローリースクエアというのは、ユタ州ソルトレークシティーにある流行のモールで、天気予報塔と呼ばれている塔が目印みたいですが、ちょうど物語の舞台のモールの給水塔に似ています。
・ナットシャーマンのピンク色の煙草はこんなのです。派手。でも格好いいような・・・。
・グルテンフリー。「ハリウッドセレブに人気のグルテンフリーとは」という記事などをご覧ください。健康志向の一部アメリカ文化は、次々に「○○フリー」を生み出しますね。
・ザ・ルミニアーズは実在します。2012年にデビューしたコロラド州出身のフォークロックバンド。なんと、初来日ツアーも行われるらしい。
・パウェイという町はカリフォルニア州に実在します。原文ではパグウェイ(Paguay)となっていますが、これは先住民の地名をスペイン風にした古名。ツインピークス通り、ポメラ-ド通りはどちらもパウェイにあります。ツインピークスという地名はあの『ツインピークス』を思い起こさせます。
・砂漠州は一八四九年にモルモン教徒が州として組織したユタ、アリゾナ、ネヴァダを主とした地域。連邦議会はこれを拒否し、一八五〇年にユタ準州ができました。『ブリーディング・エッジ』には“砂漠州《デザレット》”という名の謎めいた超高級マンションが出てきます。
もしも砂漠州が存在していればパウェイは州の南西角に位置し、トローリースクエアは州の中心付近に来る。ここに意味があるのか、ないのか、不明。
・死者の国《シバルバ》と訳したのは、マヤ神話に伝えられる死者の国のことです。原文は綴りが違うのですが、でもたぶん、これのこと。
・DSMは最近、マスコミなどで取り上げられることもあるので広く知られるようになりましたが、アメリカで心の病気の診断に用いられているマニュアルです。しばしば改訂されていますが、そのたびに、「何が病気で、何が正常か」という基準が変わっているのが興味深い。同性愛やPTSDみたいなものがここでどう扱われてきたか、というのが研究題目になったりもします。
(了)
・ザ・ルミニアーズは実在します。2012年にデビューしたコロラド州出身のフォークロックバンド。なんと、初来日ツアーも行われるらしい。
・パウェイという町はカリフォルニア州に実在します。原文ではパグウェイ(Paguay)となっていますが、これは先住民の地名をスペイン風にした古名。ツインピークス通り、ポメラ-ド通りはどちらもパウェイにあります。ツインピークスという地名はあの『ツインピークス』を思い起こさせます。
・砂漠州は一八四九年にモルモン教徒が州として組織したユタ、アリゾナ、ネヴァダを主とした地域。連邦議会はこれを拒否し、一八五〇年にユタ準州ができました。『ブリーディング・エッジ』には“砂漠州《デザレット》”という名の謎めいた超高級マンションが出てきます。
もしも砂漠州が存在していればパウェイは州の南西角に位置し、トローリースクエアは州の中心付近に来る。ここに意味があるのか、ないのか、不明。
・死者の国《シバルバ》と訳したのは、マヤ神話に伝えられる死者の国のことです。原文は綴りが違うのですが、でもたぶん、これのこと。
・DSMは最近、マスコミなどで取り上げられることもあるので広く知られるようになりましたが、アメリカで心の病気の診断に用いられているマニュアルです。しばしば改訂されていますが、そのたびに、「何が病気で、何が正常か」という基準が変わっているのが興味深い。同性愛やPTSDみたいなものがここでどう扱われてきたか、というのが研究題目になったりもします。
(了)
2014年5月10日土曜日
地上の世界
地上の世界
(http://www.hashslingrz.com/surface-world)
ハッシュスリンガーズ著 森谷卓也・木原善彦訳
カリーニングラード州のような空間的に特異な地域に対し、地図製作者は特別な親近感を抱く。戦間期、ポーランドとリトアニアとに囲まれたその地域は、東プロイセンとしてドイツの飛び地となっていた。第二次世界大戦時にソヴィエト連邦に併合されたが、ソ連崩壊後、再びそこは飛び地となった――今回はロシアの飛び地だ。おかげで地図製作者は歴史上ずっと、バルト諸国の地図を描く際、同じ国は同じ色で塗り、隣接する別の国は配色を変えるという方針を貫いた場合、色が最低何色必要になるかについて頭を悩ませてきた。皮肉にも、カリーニングラードの土地的な隔たりにもかかわらず、このバルト海岸の小さな領土を支配しようとするロシアの衝動は、連結性と連続性の問題が原動力となっていた。というのも、カリーニングラードには、おそらくこの世で最も危険なカルト集団、“ドイツ位相幾何学者騎士団”がいるからだ。
団体の起源は慎ましいもので、十九世紀半ばにさかのぼる。ケーニヒスベルク 大学の数学部に入学しようとしている学生たちは、いくつかの一見解決不能な試験問題を与えられた。たとえば、「大学を出発し、街の7本の橋をそれぞれ必ず一度、かつ一度だけ通って、大学に戻ってくるルートを見つけよ 」という問題だ。十八世紀ドイツ版のコバヤシマルとも言える、この表面上は決してうまくいかないシナリオは、見込みある志願者が不可能に直面したとき、どう乗り切るかを判断するためのものだった。レオンハルト・オイラー の理論に精通している有能な学生は、頂点とそれに伴う辺を数えあげ、問題が解決不可能であるという数学的根拠を明確に述べた。試験に落ちた一人の学生は試験の後でとんでもない解決に訴えようとした――橋を一本爆破しようとしたのだ。
数学部の入試に合格した者の多くは間もなく、“麦酒同好会《ビエトリンカー・ブルダーシャフト》”に加わった。同好会は正式には、ドイツ位相幾何学者騎士団と呼ばれていた。イマヌエル・カントの教えを奉ずるこの哲学的な一派は、「自分自身の悟性を使う勇気を持て」という言葉をモットーとしていた。試験に落ちた学生がダイナマイトを使って問題を解こうとしたという伝説もまた、不可能を可能にするのに近い、啓発的な考えの英雄的なモデルとして、団体のフォークロアに組み込まれた。
時が経つにつれて、この陽気な一団は変わっていった。数学も進歩した。表と裏が無限につながったメビウスの帯、集合論のカントール、分離空間を定義するフェリックス・ハウスドルフ の公理。そうした中で、ケーニヒスベルクに関する位相幾何学者のジョークは歴史に埋もれていった。数学は無限の彼方に存在する完成に向けて際限なく突き進むかのように、絶えず進歩し、発展し、洗練されているかのようだった。
取り巻く世界も変わったが、いい方向に向かったわけではなかった。戦争、ワイマール共和国でのハイパーインフレ、繰り返される金融危機。マルクス主義、全体主義、共産主義など、次々に破滅的な“主義”が流行したが、互いに矛盾するそれらのイデオロギーでは、問題の解決はできなかった。そうした“主義”が信用ならぬ過去へと消え去った後を、“新○○”が受け継いだ。新自由主義は世界規模の究極の富をあおり、新マルクス主義は偉そうに後期資本主義を語り、新ケインズ学派は財政刺激で民衆をペテンにかけた。変わったものは何もなかった。“新○○”は結局のところ、ただの看板の掛け替えにすぎなかった。現実世界の人類は、進歩や出口のない無限のループに閉じ込められ、進歩のアンチテーゼは数学においてのみ実現された。
ソヴィエトによる侵略の後、位相幾何学者団体は秘密主義をいっそう徹底するようになり、世界を繰り返される過ちのサイクルから開放するために数学の知識を使うことを誓う抵抗勢力《レジスタンス》となった。そしてプロイセンの騎士によって建造された十二世紀の砦の遺跡である、カリーニングラードの地下に隠された広大な通路や地下トンネルに身を潜めた。使いやすさばかりを考えた、参議院議事堂の強化コンクリート製建物の下での新たな生活。地上の巨大な建物は再建されたソヴィエト風の都市景観の中で、まるで大きな箱型のロボットが捨てられているかのように見えた。彼らは今、位相幾何学の符号に詳しい者だけが理解できる幾何学的暗号が記された地下世界の通路に住んでいた。そしてナチスの地下掩蔽壕への階段、地上との行き来のために備えつけられた抜け穴である下水道の出入り口、秘密組織の存在を維持するために三次元的に相互に連結されたトンネルを複雑なオイラー的回路がつなげていた。
団体の入団試験は、選り抜きの同志を選ぶ慎重な儀式となった。志願者は胴着のみを身につけ、両手を縛られ目隠しされた。そのままの状態で胴着を裏返し、裏表で着ることのできた者が、団体の一員となった。この入会儀式が表しているのは、外部を内部にマッピングする関数を見つけた志願者こそが位相幾何学の世界において真に価値ある者であるということであった。
所詮は悪意のない位相幾何学の手品じみたトリックだ。そんなものは破壊的な集団の印でない。あなたはそう考えるかもしれない。しかしながら、位相幾何学者は、長い間、ある単純な事実を知っていた。丸い球から生えている毛をむらなく梳かすことは不可能だ、という事実を。球の表面上で連続する接ベクトルを取り、それに沿って平らに毛を梳かしてみるといい。ベクトルすべての起点、それらすべてが収束する点が常に生じるだろう。位相幾何学者にとって、地球はまさに球であり、磁力や風、潮流がベクトル場だ。風が吹いていない地点、それ以上は北に行けない地点、潮流がない地点、そうした特異点が必ずある。しかしながら、どこかでは常に風が吹いている、だから数学上は、地球上のどこかでいつもサイクロンが渦巻き、風のない中心点、特異点が必ず存在することになる。
あるとき、街の地下深くで、コーヒーを飲みながら、あるいはベーグルをつまみながら、団体の重大な会議が開かれた。位相幾何学者の一人が、ベーグルを持ち上げ(もしかするとコーヒーカップだったかもしれないが、位相幾何学的には相似なので両者の違いは重要ではない――トーラスでありさえすればいい)、世界の経済的災難に対する幾何学的解決法の結論を下した。金銭もまた地表を漂うベクトル場にすぎないと彼は断じた。世界の金融システムにおける根本的問題は明らかだ。人類はプラトン立体上に存在している。だから、地上で金銭をスムーズに流通させようとするとどうしても、金が無法な掃き溜めに消えたり、各国の政府銀行が常に紙幣を印刷することが必要になったりする。新マルクス主義は間違いである。資本主義は後期の段階に達したのではなく、絶えず渦に飲み込まれているのだ。地球上のベクトル場内部のこれらの財政上の特異性の必然的結果は明らかだ。金銭供給の逸脱的な変動、渦を巻き激動する負債、にわか景気と不景気、金融上の急暴落、無秩序と悲惨な人々。この難問に対して、唯一の正しい数学的な解決策が存在するかもしれない。世界が位相幾何学的にバランスをとらない限り、金融政策は決して安定しないだろう。そしてドイツ位相幾何学者騎士団は、どうすればそれが実現できるのかを理解した。「われわれは自分自身の悟性を使う勇気を持ち、地球にでっかい穴を開けなければならない」と。
そう。みなさん、ロシア人がドイツ位相幾何学者騎士団が地上に戻ってくる日を恐れているのは、だから、当然のことなのだ。
【訳者解説】
これまた理系風味(今回は特に幾何学、位相幾何学)がかなりきいた、私好みの短編です。仕掛けが分かるとすごく楽しい。地球にでっかい穴を開けて地球上のベクトルの流れを一気に変え、経済の問題を解決するという飛躍も大胆かつウェルメイド。ピンチョン風超短編ハッシュスリンガーズらしい作品です。
冒頭はいわゆる「四色問題」あるいは「四色定理」を踏まえています。四色定理とは、いかなる地図も、隣接する領域を違う色に塗り分けるには四色で足りる(やや意外に思えるかもしれませんが)という定理。ただし、ここで厄介なのは「飛び地」の問題です。(本国から離れて他国領地内にある)飛び地は本国と同じ色でなくてもよいのなら四色で足りるのですが、飛び地をちゃんと本国と同じ色にしなければならないという条件が付くと、必要な色の数はいくらでも増えてしまいます。だから、この短編中で地図制作者が頭を悩ませているわけです。
他のややこしそうな語句についても簡単に説明を。
位相幾何学(トポロジー)。比較的新しい幾何学の分野。トポロジーの名称はギリシャ語のトポスとロゴスの合成に由来するもので、直訳すれば「位置の研究・学問」。wikipediaの該当ページを見ると、ケーニヒスベルクの橋の問題やコーヒーカップとドーナツのことなど、この短編を読むのに鍵になる要素が概観できます。
ケーニヒスベルクはカリーニングラードの旧称。
「ケーニヒスベルクの橋の問題」は有名な一筆書きの問題。数学者オイラーは、この問題をグラフに置き換え、グラフが一筆書きできないことを証明し、問題を否定的に解決した。オイラーは数学者であると同時に、物理学者、天文学者でもあった。微積分成立以後の18世紀の数学の中心となって、続く19世紀の厳密化・抽象化時代の礎を築いたとされる。スイスのバーゼルに生まれ、サンクトペテルブルクにて死去した。(1707年4月15日 - 1783年9月18日)
「コバヤシマル」はアメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズに登場する、シミュレーション課題の1つ。これも「ケーニヒスベルクの橋の問題」と同じく、実は解けない問題というところがミソです。
カントールは(『逆光』読者にはおなじみですが)ドイツで活躍した数学者。素朴集合論の確立者。(1845年3月3日 - 1918年1月6日)
ハウスドルフはドイツの数学者。位相空間などの研究に貢献した。(1869年11月8日-1942年1月26日)。
目隠しをして、両手をくくったままで、胴着(チョッキ、ベスト)を裏返しにする、という位相幾何学的課題が解決可能かどうかは(私の頭では)不明。
「球に生えている毛を梳かすのは不可能」という部分は分かりにくいかもしれません。丸いボールの全体に毛が生えているのを想像してください。それを人間の髪の毛みたいに、櫛やブラシで梳いて、寝かしつけようとします。すると、全体をきれいに寝かすのは無理で、どうしても頭頂の“ぎり”みたいに「髪の流れの起点」と、その逆に「髪が集まって突っ立ってしまう地点」ができます。それがここで言う「特異点」。これは相手が球だから生じる問題なので、ドーナツみたいに穴を一つ開ければ、全体を平らに寝かすことができます。だから、「地球にでっかい穴を開ける」という(とんでもない!)解決につながる。
なお、位相幾何学的には、ドーナツみたいな一つ穴の形状を「トーラス」と言います。多くの人は「位相幾何学」という単語を覚えるのと同時に、「位相幾何学的には、ドーナツもコーヒーカップも同相である」という言い方(考え方? ものの見方?)も覚えます。
プラトン立体というのは正多面体のこと。すべての面が同一の正多角形で構成されてあり、かつすべての頂点において接する面の数が等しい凸多面体。正多面体には正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の五種類がある。
翻訳も厄介ですが、注も厄介な短編でした。
【追記】
いろいろ調べているうちに、「位相幾何学者がベーグルを本気で切ってみたらこうなった」みたいな記事が見つかりました。きっとこのジョージ・ハート氏はドイツ位相幾何学者騎士団に属しているに違いない……。
【追追記】
球をドーナツ型に変えてベクトルの流れを・・・というあたりの話は「ポアンカレ=ホップの定理」として数学的に定式化されている問題だということです。友田とんさん(@tomodaton)情報をありがとうございました。
(了)
2014年4月25日金曜日
風に吹かれる古びたゴミバケツ
風に吹かれる古びたゴミバケツ
(http://www.hashslingrz.com/ancient-trash-cans-wind)
ハッシュスリンガーズ著 藤木祥平・木原善彦訳
いつもと同じように孫の世話を任されたフルトン爺さんは、ジョーがハロウィン用の衣装を着るのを手伝ってやった。アルミ箔で覆われ、爺さんが屋根裏で見つけてきた雑多な電子ダイヤルやメーターで飾り付けられた、二つの段ボール箱からなるロボットの仮装だ。
「なあジョー、お前さんの衣装を見ていると一九三一年のハロウィンを思い出すよ。今でも思い出す夜だ」。フルトン爺さんはまたまた老人特有の思い出話を語りだし、ジョーはといえば二つの特大段ボールを身にまとっているせいで逃げようにも逃げられず、聞き役として捕まってしまった。
「三一年にシカゴのとある大富豪がシカゴ美術館設立のための資金を募るためにハロウィン仮装舞踏会とコンサートを企画したんだ。会場は一八九三年にシカゴ万博で使われた現存する唯一の建物、パレス・オブ・ファイン・アーツ さ。建物も柱も彫像も見かけは立派で新古典主義的だけれども全部まがいもの、ただ正面を漆喰で塗り固めただけのものだよ。舞踏会のテーマは産業と科学で、独創的なコンサートいうことで専門家に作曲を依頼することになった。アメリカ人の作曲家、ジョージ•アンタイルがヨーロッパから帰ってきて、彼の最初にして唯一の交響曲『ロボットのための都市産業のサウンドスケープ』を書き上げたんだ。曲には伝統的なオーケストラの楽器は必要なくて、アンタイルは代わりに発明家のニコラ•テスラ と共同して一連の電子楽器の開発をしたのさ。わざわざその初演のために。彼は言った、ユニークな音楽にはユニークな楽器が必要だ、と。わしはそのときニコラ•テスラの弟子でね、電子モーターにケーブルをつける仕事をやらされていた。それで無料のチケットを手に入れたってわけさ。
「舞踏会の夜、参加者は皆、奇抜な衣装で会場にやってきたよ。伝統的な魔女や悪魔の格好をするような大胆な奴は少なくて、ベラ・ルゴシ やボリス・カーロフ の最新の映画のキャラクター――犬歯から血を滴らせるドラキュラや首からボルトの突き出たフランケンシュタインだな――に仮装する流行好きの方が多かったね。スヴェンガーリ に仮装してた男も一人いたな。近くにきた女全員に催眠をかけようとしておったよ。予想はつくだろうがパーティーのテーマがテーマだから多くの連中は宇宙飛行士やロケット式宇宙船の格好をしていたんだ。それにあらゆる種類のロボットだ。フリッツ・ラングの『メトロポリス』 に登場したマリアみたいなアンドロイドも何人かいたね。
「交響曲は連中がメインの展示室にごった返しているときに始まった。テスラの電気機械オーケストラはいくつかのセクションに分かれていたんだ。一つ目のセクションは鉄パイプとチューブに繋がれた蒸気エンジンから構成されていて、汽笛の音やシューッといった音を出していた。また別のセクションでは電子モーターが使われていて、ベアリングはすでに使い古されたものか、あるいはわざと古く見えるようにしてあったね。それがバランスの悪い回転式おもりに取り付けられていたんだ。モーターが回るとベアリングはブツブツ、ゴロゴロと音を立てて台の上で共鳴し、モーターの速度に合わせて盛り上がったり弱まったりして、奥行きのあるハミングをつくり出していた。東側ではベルトやカムシャフトを介してもっと多くのモーターが接続されていて、それが発振器の槌を上下に運動させ、その槌が様々な大きさの金属製や木製、プラスチック製の板を叩いていた。西側では鎖に繋がれたブロンズ製のベルが一組、鉄格子を横切る形で引きずられていてね。鎖がドラム缶の上で繰り返し絡まっては解け、まるで風に吹かれる古びたゴミバケツみたいな音を産み出していたんだよ。
「建物の壁を背にして置いてあったのは蒸気動力の振動器で、それがあのテスラコイルなんだが、建物の自然周波数に合わせられていた。こいつらがドシン、ドーンと大きな音を出して音楽の基調音を出していたんだ。周波数がすごい低かったものだから、通り過ぎるときに大きい方を漏らしちまう参加者もいた。全てのオーケストラの機械はゴムやクロム合金を身にまとった等身大のロボットが運転していた――おそらくテスラ自身の信念である、人間の魂なんてものは外的刺激によってコントロールされる自動式ロボットに過ぎない、ということを表していたんだろうな。
「メインホールの中心では、二十フィートあるテスラコイルの下で、タンクの中の様々な海の生き物が出す有機的な音が録音されていて、それから電子回路のバンク、フンフンと音のなる真空管、抵抗器、そして蓄電器と通過していき、その音が電磁波によって再び増幅され、建物中の拡声器に送られていくのさ。あるタンクからは、水中に放たれたメスのホルモンに発情したオスのガマアンコウ の脈打つような低い唸り声が聞こえてきた。また別のタンクはテッポウエビを収容していて、そいつらはゆっくりと餌の小魚を与えられているんだ。そいつらのでっかいはさみが閉じられ、キャビテーションによる泡が発生して打楽器的なパチンという音が出されて獲物を仕留める。そしてその音が全部、水中マイクに拾われてパーティーの連中に向けて増幅され反響していたんだ。
「オーケストラの最後のパートは聴衆自身で、拡声マイクの拾った『ブー』や『テュッ』や『クッ』といった音をうまく曲にしていたんだ。まるでドラムやシンバルの音を模倣してるみたいだったね。ジョー、あれは確かに未来の音だったよ。
「この話の残りの部分はお前みたいな子供にはちょっと刺激が強いかもしれんが今日はハロウィンだしな、構うもんか。ただママには喋るなよ。工場みたいな不協和音の中で皆がアルコールを飲みたくなるのはほとんど必然で、それに夜中頃にはパーティーは大いに盛り上がっていたんだ。忘れるなよジョー、この時期は禁酒法の真っ只中でみんなの奇抜な衣装には一本か二本、スコッチやウォッカを入れるための隠しポケットがあったんだが、持ってきた分はすぐに底をついちまった。酒を補充するために車が送り出されていたね。アル・カポネ の貯蔵庫はシカゴの善良な市民のための融通の利く税金還付所といったところで、今や奴はそれでムショの中だがね、ジンやウォッカ、ウィスキーが大量に到着し始めた。自由奔放な酒、交尾中の魚の匂い、テスラ振動器のほとんど原始的なハミング――当然ながら、誰もが陽気にはしゃぎだした。手はよからぬ方向へとさまよい始め、時折歓迎されては拒絶もされ、はたまた別の場所では拳が飛び交い、けんか騒ぎが勃発する。アンドロイドのマリアが二人、お互いの金属製の乳房の桁外れな大きについて侮辱し合った後、トイレでけんかしているのを見た人もいた。
「パーティーが面白くなるにつれて――あるいは人によってはそれを下品というだろうが――雷を伴った嵐がミシガン湖に吹き荒れ始めた。テスラの機械が引き起こしたか、あるいはそれに引き寄せられたのか、それは誰にもわからんよ。どっちにしろ、巨大な稲妻を伴った雷が空から落ちてきたんだ。そいつは発電機を直撃してオーケストラの回路に無理な負荷をかけた。音量は耳がおかしくなるくらいまで跳ね上がった。悪夢だったね、まったく。みんな仰天して文字通り恐怖で凍り付いたよ。テスラ振動器は制御できないくらいに建物の骨組みを揺らして、環状のフィードバック装置も作動させることができず、漆喰のファサードは崩れだした。最悪の事態を恐れて、テスラはばかでかい主電源を引き抜いた。火花は散ったが、システムのなかにすでに莫大なエネルギーが蓄積されていたものだからもう手遅れだった。建物のファサードは崩れ落ち、まさに建物そのものが崩壊しているように見えた。パレス・オブ・アート周辺の通りは、倒れたり粉々になった女人像柱や男像柱で埋め尽くされたよ。
「それから突然、嵐は止んだ。遠くから警察のサイレンも聞こえた。酒飲みたちはすぐにエリオット・ネス と酒類取締局の警官隊が向かってきていることに気がついた。みんな一目散に逃げ出したよ、その晩の出来事がばれないようにね。その後誰一人としてテスラの不可思議な機械をどうすべきかわからずじまいだった。今でもまだ、まさしく同じその建物にそいつはあるよ ―今はシカゴ産業博物館 というがね。これは本当の話なんだぜ、ジョー」
【訳者解説】
時代感覚と時代錯誤、大衆文化の断片と、メカニカルなガジェットがほどよく混じった短編です。
パレス・オブ・ファイン・アーツという建物は、現在のシカゴ科学産業博物館。ミシガン湖の近く、シカゴ南部のハイド・パーク地区にあるジャクソン・パーク内に所在。なので、この物語全体が、「あの建物が博物館になった経緯」として語られています。もちろん壮大な作り話。1893年開催のシカゴ万国博覧会において「パレス……」という名称で使われた建物。1933年のシカゴ万国博覧会期間中にシカゴ科学産業博物館として開館した。
アンタイルは、アメリカ合衆国の作曲家・ピアニスト。最も名高い作品は、1926年の「バレエ・メカニック」。ユーチューブで聴けます。この曲において踊り子を演ずるのは機械であり、電子ブザーや航空機のプロペラといった部品が含まれ、この作品は初演において、騒動と評論家の非難を巻き起こしました。
ニコラ・テスラは、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システム(世界システム)を提唱したことでも知られる。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。ベラ・ルゴシは主にアメリカ合衆国で活動したハンガリー人俳優。『魔人ドラキュラ』(1931年)におけるドラキュラ役として有名。ボリス・カーロフは、主にアメリカで活躍した俳優。世界中の誰もが「フランケンシュタイン」と聞いて思い浮かべる、面長で頭部が平たく、額が張り出した無表情なモンスター役をユニバーサル映画『フランケンシュタイン』(1931年)で最初に演じた俳優として知られる。スヴェンガリは、ジョージ・デュ・モーリアによる1894年の小説『トリルビー』に登場する催眠術師。『メトロポリス』はフリッツ・ラング監督によって1926年(大正15年)製作、1927年に公開されたモノクロサイレント映画で、ヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画。SF映画に必要な要素が全てちりばめられており「SF映画の原点にして頂点」と称される。これらはピンチョンの作品を読んでいる人にはおなじみだと思います。
ガマアンコウと訳した魚は、正確にはガマアンコウ科に属するPorichthys notatusのことでplainfin midshipmanという名でも呼ばれる。求愛を行う際に鳴き声を発することで有名。鳴き声はhttp://jp.sciencenewsline.com/articles/2013103019329000.htmlで聞くことができます。
テッポウエビがはさみを急に閉じることで特殊な泡を発生させ、衝撃波で獲物を仕留めるという話も本当の話で面白い。参考までに詳しいホームページはこちら。
アル・カポネは言わずとしれたアメリカのギャング。彼を逮捕したのがエリオット・ネス。ネスはFBIではなくて、財務省の酒類取締局(Bureau of Prohibition)の捜査官でした。
そうそう、ちなみに途中で、みんなが「『ブー』や『テュッ』や『クッ』といった音」でパーカッションをする部分がありますが、ここは故意の時代錯誤。ヒューマンビートボクサーのDaichiさんがこちらのビデオでボイスパーカッションの最初の練習法を紹介されていますが、「ブーツカット」と発音するのが第一歩らしい。「『ブー』や『テュッ』や『クッ』」というのはまさにその音のこと。だから、「未来の音」というのは、現在の私たちの知るボーカルパーカッションの流行のことです。
注を付けだしたら切りがないですね。
(了)
2014年4月17日木曜日
厄介な質問
厄介な質問
(http://www.hashslingrz.com/awkward-question)
ハッシュスリンガーズ著 佐野知足・木原善彦訳
夏のカラカラした暑さが嘘のように、夕方には湿った暖かさを残して雨は北の丘陵へ去っていった。ダマスカスの陥落から一か月も経たぬうちに多くのことが変わった。まずオスマン帝国との休戦協定が結ばれ、次いでドイツとの休戦協定で話題は持ちきりである。ベルリンでは革命が政権を制し、皇帝はオランダへ亡命し、ロレンス中佐はロンドンに戻っていった。キャベンディッシュ=メドウズ大佐とシャリーフ軍の砂漠での奮闘はほぼ終わりかけていたが、まだ戦闘中のハーシム家の兄弟たちを残して去るわけにはいかなかった。ダマスカスという町では、まだ何が起きるかわからない。
「あぁ、この不潔なヴィクトリアホテルは退屈すぎて耐えられないよ。オマール君、バルジールレストランで川を臨んでディナーなんてどうだい」と、いつも冒険をご所望のキャベンディッシュは言った。
「我が友よ、我々はアルカバからダマスカスまで砂漠の長い旅路を共にしてきた。タファスのいたる廃墟で切断された遺体を目撃し、死にゆく子供たちを腕の中で看取ってきた。その血が砂漠の砂に染み込み冷たくなるまでトルコ人を銃と剣で八つ裂きにした。そして我々は共にダマスカス――アラブ国民の新しい首都――を陥落させた。我々が歴史を作った。今夜は銃を休め、ちゃんとした夕食を共にすることが私の至高の喜びだ」
バルジールはお客で溢れかえっていたが、ウェイターが店の奥の方の小さなテーブルに彼らを案内した。アヤメの模様が描かれた分厚い革製のメニューを手渡され、キャベンディッシュとオマールはそれに注意深く目を通した。このようなかたちでの夕食は、アルカバからメディナにかけて数多くの勝利を経て、やっと辿りついたダマスカスで初めてのことであった。
「キャベンディッシュ、ラタトゥイユ・プロヴァンスとは何だ」
「ガーリックとオリーブオイルで野菜をソテーにしたプロヴァンス地方の郷土料理さ。南フランスはこの時期実に美しい。もっとも、もし君に行く機会があるのならば、私は夏に行くことをお勧めするがね。夏の南フランスはラベンダーの香りに包まれ、一面に紫色をした野原が広がっているんだ」
「アラブの勝利の日にフランス料理はごめんだ」
「じゃあ、それはまた来たときにでも頼みたまえ。君はきっとフランス人が作るものを気に入るよ。でも、今夜は違うものを食べることにしよう」
「ココヴァン、エスカルゴ、コンフィート・デ・カナード…ここにはフランス料理しかないのか?」オマールは次第に不機嫌になって、ウェイターを大声で呼びつけた。「このメニューの意味を説明しろ。ここはパリじゃないんだぞ」
「何か問題でもございましたか、お客様」
「オマール君、ここは私に任せてくれ。駆け引きはイギリス人の得意とすることろだから。私からちゃんと言って聞かせよう」。キャベンディッシュは斜め後ろのウェイターに向き直った。「すまないが、君《ギャルソン》。我が友人は自転車に乗った玉ねぎ売りの料理は食べたくないらしいのだが、私の言っている意味がわかってもらえるかな?」
「もちろんです、お客様。我々はすべてのお客様にご満足いただけるようメニューに載せていないものも含め、世界中のあらゆる料理を取り揃えております。今夜のオススメはペスチェ・アラ・ピッツァイオーラでございます。」
「イタリア産のメカジキかね」
「そうでございます。こちらはイタリア人のお客様にも気に入って頂けました。もっとも、その客様はお料理の"分け前"をご所望なさっていたのですが、この場合"分け前"の意味が曖昧でして、おかげで少々混乱を招いてしまいました 」
「メカジキが友人の意向に沿うとは思えないね。他に何かあるかね」
「では、ウォルドーフサラダはいかがでしょう。こちらはアメリカ航海部局のお客様に大変気に入って頂きまして、海兵の方々がこれを求めてはるばる陸地に上がってくるほどです」
「ばかばかしい。行方の分からなくなった当番兵をアメリカ海軍情報局の連中が探すなんて。なんせ彼らはオックスブリッジをイギリスにある村だと思っているくらいだからね。今夜はサラダの気分ではないんだ」
「それではゲフィルトフィッシュのホースラディッシュ添えはいかがでしょう。こちらは香り高く……」
「アラブの反旗が600年に渡るオスマントルコの支配に打ち勝った日にユダヤ人の料理を食えっていうのか!」。オマールは怒気をはらんだ声を上げた。
「先日ドイツ人のお客様がいらした際に、将来多くのユダヤ人のお客様が来られることを予測して、ゲフィルトフィッシュなどの他の興味深い料理を用意してはどうか、とご意見を頂きまして。おかしなことに、そのお客様はユダヤ料理が特別好きな様子でもなかったのですが、きっと誰か他の方のためにそう言ってきたのでしょう」
隣の席に座っている顔に痘痕のある男が、今しがた巻いたばかりのタバコをテーブルに置くと、オマールの方に体を傾けてきた。男の息からはトルコ産タバコの強烈な臭いがした。「同志よ、お前さんはヨーロッパのもんを口にしたくないようだからアドバイスさせてくれ。ニシンのサラダ《セリョートカ・パト・シューバイ》なんてどうだい。フランス人はメニューを勝手にいじるばかりだが、モスクワ人は現物をもってくる点で信用できる」
キャベンディッシュが手を上げて男を制した。「横から口出ししないで頂きたい。我々はどの役割をフランスに果たしてもらうかという点も含め、互いの利益を調整した末の非常に慎重な合意に達しようとしているのです。あなたに邪魔されることなく、ね」。明らかに、ここから先はロシア人に口を挟ませないという態度だ。
ダマスカスは果たして望んだ通りのものなのだろうか、ここにきて初めて、そんな疑問がオマールに思い浮かんだ。「キャベンディッシュ、今日は我々が砂漠の地で誓い合った義兄弟の契りを祝おう。我々はオスマン人を打破し、ダマスカスに辿り着いたのだ。今は我々の勝利を簡単なアラブの食べ物で祝おうじゃないか。ファタールにフムス、あと少しのヨーグルトがあれば十分だ」
「我が遊牧の戦士よ、私を信じてくれ。君は不毛の砂漠でわずかな食べ物を見つけ生きる魔術師のような人だ。しかし都市の生活とは複雑なものなんだ。だから、君はやはりフランス料理を食べるべきだ。メニューにあるものから選びたまえ。今は余計なことを言わない方がいい」
ロシア人がオマールの方を向いて、耳元で囁いた。「おまえさんはもうサイクス・ピコ協定についてそのイギリス人のご友人とは話し合ったのかい? これはなかなか厄介な質問だからね、今夜は尋ねないほうがいいかもしれない。だけど、いつかは必ず訊いてみるんだな。メニューに載っているのが本当は何か、ってね。わしは毎晩ここで夕食をとっているから、おまえさんがここで出されるものを気に入るかどうかは知らんが、話したくなったらいつでも来るがいい」
【訳者解説】
久しぶりに、ハッシュスリンガーズの短編の翻訳を掲載します。二〇一四年四月から始まった新しい授業で、翻訳の実践として受講生(院生)に翻訳してもらい、それに木原が手を入れる形で、ここに掲載します。誤字、誤訳などは木原の責任です。
世界史に関連する部分がかなり重要なので、少し説明を。
最後の方に言及があるサイクス・ピコ協定は、第一次世界大戦中の一九一六年五月十六日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。これが分からないと話のポイントが見えてきません。アラブ人がオスマントルコを打ち負かして自分たちの国を作るはずが、英仏露の秘密協定でそれを裏切られる(そしてロシアの革命政府が秘密を暴く)という歴史の筋書きをレストランの風景が再現しています。「遠からず、ユダヤ人がたくさん中東に来る」とドイツ人が予言するのも皮肉がきいています。
(ちなみに私はどこかで、「911の同時多発テロはサイクス・ピコ協定のバックラッシュだ」という発言を見かけたことがあります。)
最初の方に登場するロレンスは、映画『アラビアのロレンス』のロレンス。
料理名は注を付けていませんが、たとえば、ロシア料理の「ニシンのサラダ」は東欧料理の店のHP(http://www.hotpepper.jp/strJ000010375/)などで写真を見られます。
「ウォルドーフサラダ」はウィキペディアに説明あり。
「ゲフィルトフィッシュ」はユダヤ料理におけるかまぼこみたいなものです。
(了)
(http://www.hashslingrz.com/awkward-question)
ハッシュスリンガーズ著 佐野知足・木原善彦訳
夏のカラカラした暑さが嘘のように、夕方には湿った暖かさを残して雨は北の丘陵へ去っていった。ダマスカスの陥落から一か月も経たぬうちに多くのことが変わった。まずオスマン帝国との休戦協定が結ばれ、次いでドイツとの休戦協定で話題は持ちきりである。ベルリンでは革命が政権を制し、皇帝はオランダへ亡命し、ロレンス中佐はロンドンに戻っていった。キャベンディッシュ=メドウズ大佐とシャリーフ軍の砂漠での奮闘はほぼ終わりかけていたが、まだ戦闘中のハーシム家の兄弟たちを残して去るわけにはいかなかった。ダマスカスという町では、まだ何が起きるかわからない。
「あぁ、この不潔なヴィクトリアホテルは退屈すぎて耐えられないよ。オマール君、バルジールレストランで川を臨んでディナーなんてどうだい」と、いつも冒険をご所望のキャベンディッシュは言った。
「我が友よ、我々はアルカバからダマスカスまで砂漠の長い旅路を共にしてきた。タファスのいたる廃墟で切断された遺体を目撃し、死にゆく子供たちを腕の中で看取ってきた。その血が砂漠の砂に染み込み冷たくなるまでトルコ人を銃と剣で八つ裂きにした。そして我々は共にダマスカス――アラブ国民の新しい首都――を陥落させた。我々が歴史を作った。今夜は銃を休め、ちゃんとした夕食を共にすることが私の至高の喜びだ」
バルジールはお客で溢れかえっていたが、ウェイターが店の奥の方の小さなテーブルに彼らを案内した。アヤメの模様が描かれた分厚い革製のメニューを手渡され、キャベンディッシュとオマールはそれに注意深く目を通した。このようなかたちでの夕食は、アルカバからメディナにかけて数多くの勝利を経て、やっと辿りついたダマスカスで初めてのことであった。
「キャベンディッシュ、ラタトゥイユ・プロヴァンスとは何だ」
「ガーリックとオリーブオイルで野菜をソテーにしたプロヴァンス地方の郷土料理さ。南フランスはこの時期実に美しい。もっとも、もし君に行く機会があるのならば、私は夏に行くことをお勧めするがね。夏の南フランスはラベンダーの香りに包まれ、一面に紫色をした野原が広がっているんだ」
「アラブの勝利の日にフランス料理はごめんだ」
「じゃあ、それはまた来たときにでも頼みたまえ。君はきっとフランス人が作るものを気に入るよ。でも、今夜は違うものを食べることにしよう」
「ココヴァン、エスカルゴ、コンフィート・デ・カナード…ここにはフランス料理しかないのか?」オマールは次第に不機嫌になって、ウェイターを大声で呼びつけた。「このメニューの意味を説明しろ。ここはパリじゃないんだぞ」
「何か問題でもございましたか、お客様」
「オマール君、ここは私に任せてくれ。駆け引きはイギリス人の得意とすることろだから。私からちゃんと言って聞かせよう」。キャベンディッシュは斜め後ろのウェイターに向き直った。「すまないが、君《ギャルソン》。我が友人は自転車に乗った玉ねぎ売りの料理は食べたくないらしいのだが、私の言っている意味がわかってもらえるかな?」
「もちろんです、お客様。我々はすべてのお客様にご満足いただけるようメニューに載せていないものも含め、世界中のあらゆる料理を取り揃えております。今夜のオススメはペスチェ・アラ・ピッツァイオーラでございます。」
「イタリア産のメカジキかね」
「そうでございます。こちらはイタリア人のお客様にも気に入って頂けました。もっとも、その客様はお料理の"分け前"をご所望なさっていたのですが、この場合"分け前"の意味が曖昧でして、おかげで少々混乱を招いてしまいました 」
「メカジキが友人の意向に沿うとは思えないね。他に何かあるかね」
「では、ウォルドーフサラダはいかがでしょう。こちらはアメリカ航海部局のお客様に大変気に入って頂きまして、海兵の方々がこれを求めてはるばる陸地に上がってくるほどです」
「ばかばかしい。行方の分からなくなった当番兵をアメリカ海軍情報局の連中が探すなんて。なんせ彼らはオックスブリッジをイギリスにある村だと思っているくらいだからね。今夜はサラダの気分ではないんだ」
「それではゲフィルトフィッシュのホースラディッシュ添えはいかがでしょう。こちらは香り高く……」
「アラブの反旗が600年に渡るオスマントルコの支配に打ち勝った日にユダヤ人の料理を食えっていうのか!」。オマールは怒気をはらんだ声を上げた。
「先日ドイツ人のお客様がいらした際に、将来多くのユダヤ人のお客様が来られることを予測して、ゲフィルトフィッシュなどの他の興味深い料理を用意してはどうか、とご意見を頂きまして。おかしなことに、そのお客様はユダヤ料理が特別好きな様子でもなかったのですが、きっと誰か他の方のためにそう言ってきたのでしょう」
隣の席に座っている顔に痘痕のある男が、今しがた巻いたばかりのタバコをテーブルに置くと、オマールの方に体を傾けてきた。男の息からはトルコ産タバコの強烈な臭いがした。「同志よ、お前さんはヨーロッパのもんを口にしたくないようだからアドバイスさせてくれ。ニシンのサラダ《セリョートカ・パト・シューバイ》なんてどうだい。フランス人はメニューを勝手にいじるばかりだが、モスクワ人は現物をもってくる点で信用できる」
キャベンディッシュが手を上げて男を制した。「横から口出ししないで頂きたい。我々はどの役割をフランスに果たしてもらうかという点も含め、互いの利益を調整した末の非常に慎重な合意に達しようとしているのです。あなたに邪魔されることなく、ね」。明らかに、ここから先はロシア人に口を挟ませないという態度だ。
ダマスカスは果たして望んだ通りのものなのだろうか、ここにきて初めて、そんな疑問がオマールに思い浮かんだ。「キャベンディッシュ、今日は我々が砂漠の地で誓い合った義兄弟の契りを祝おう。我々はオスマン人を打破し、ダマスカスに辿り着いたのだ。今は我々の勝利を簡単なアラブの食べ物で祝おうじゃないか。ファタールにフムス、あと少しのヨーグルトがあれば十分だ」
「我が遊牧の戦士よ、私を信じてくれ。君は不毛の砂漠でわずかな食べ物を見つけ生きる魔術師のような人だ。しかし都市の生活とは複雑なものなんだ。だから、君はやはりフランス料理を食べるべきだ。メニューにあるものから選びたまえ。今は余計なことを言わない方がいい」
ロシア人がオマールの方を向いて、耳元で囁いた。「おまえさんはもうサイクス・ピコ協定についてそのイギリス人のご友人とは話し合ったのかい? これはなかなか厄介な質問だからね、今夜は尋ねないほうがいいかもしれない。だけど、いつかは必ず訊いてみるんだな。メニューに載っているのが本当は何か、ってね。わしは毎晩ここで夕食をとっているから、おまえさんがここで出されるものを気に入るかどうかは知らんが、話したくなったらいつでも来るがいい」
【訳者解説】
久しぶりに、ハッシュスリンガーズの短編の翻訳を掲載します。二〇一四年四月から始まった新しい授業で、翻訳の実践として受講生(院生)に翻訳してもらい、それに木原が手を入れる形で、ここに掲載します。誤字、誤訳などは木原の責任です。
世界史に関連する部分がかなり重要なので、少し説明を。
最後の方に言及があるサイクス・ピコ協定は、第一次世界大戦中の一九一六年五月十六日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。これが分からないと話のポイントが見えてきません。アラブ人がオスマントルコを打ち負かして自分たちの国を作るはずが、英仏露の秘密協定でそれを裏切られる(そしてロシアの革命政府が秘密を暴く)という歴史の筋書きをレストランの風景が再現しています。「遠からず、ユダヤ人がたくさん中東に来る」とドイツ人が予言するのも皮肉がきいています。
(ちなみに私はどこかで、「911の同時多発テロはサイクス・ピコ協定のバックラッシュだ」という発言を見かけたことがあります。)
最初の方に登場するロレンスは、映画『アラビアのロレンス』のロレンス。
料理名は注を付けていませんが、たとえば、ロシア料理の「ニシンのサラダ」は東欧料理の店のHP(http://www.hotpepper.jp/strJ000010375/)などで写真を見られます。
「ウォルドーフサラダ」はウィキペディアに説明あり。
「ゲフィルトフィッシュ」はユダヤ料理におけるかまぼこみたいなものです。
(了)
2013年11月7日木曜日
もう一つの、もっと輝かしい世界
ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳
もう一つの、もっと輝かしい世界
(http://www.hashslingrz.com/other-brighter-world)
『アーカンソー・ヘラルド』紙の新米記者カルヴィン・ゼファームはさまざまな仕事を任されていたが、その内容は一言で説明できた。要は、ベテラン記者が嫌がった全ての取材ということだ。今週任されたのは、現在カナダからアーカンソーに来ている竜巻追跡人ルービン・エイサーの特集記事。ホワイトウォーター疑惑を暴いた記事みたいなスクープとは大違い。しかし、今年は例年よりも竜巻の数が急激に増えているから、カルヴィンの記事が話題になる可能性もなくはない。
カナダ人らしく几帳面なルービンは、ミラー郡のトウモロコシ畑で要領よく気象観測用気球を組み立てながら、大気の仕組みをカルヴィンに説明した。
「地球の気候は不可逆過程だが、均衡が取れている。低エントロピーの太陽からの、エネルギーに満ちた放射熱が地球を温め、私たちが“天気”と呼んでいる巨大な熱機関を駆動し、赤道付近の大気を極付近へ、地面近くの大気を上層へと動かす。宇宙にあるものはすべて、熱力学の法則に従わなければならない。気候機関内の乱流は大きなエントロピーを生む。地球はその均衡を保つため、波長の長い高エントロピー放射を宇宙に向けて放つ。今年は例年になく強烈な竜巻がたくさん発生している。通常と逆向きに回転するこれらの発作的混沌は、世界が変容したことを示している。人類が引き起こした大気汚染がエントロピーの均衡を乱してしまったということだ。最終的にこれがどんな結果を招くかは誰にも分からない」
彼がそう言う間にも、つい先ほどまで晴れ渡っていた青空がにわかに暗くなった。雷が鳴り、周囲を稲妻が囲んだ。突然、巨大な竜巻が発生した。直径おそらく一マイルはあろうかという渦がうなり、耳障りな轟音が回転しながら彼らに迫った。
「竜巻だ、竜巻だ! 真っ直ぐこっちに向かってくる。あなたみたいなカナダ人は大丈夫でしょうが、私らには無料の医療保険がないんですよ」。カルヴィンは切羽詰まった悲鳴を上げる。
「竜巻の風はそれ自体ではさほど危険じゃない。ウェストにこの紐を巻くんだ。いろいろな物が渦巻いている高さを超えて、竜巻の速度とシンクロすればもう大丈夫。上空に行くにつれて寒くはなるけれど――この帽子をかぶりなさい」。そう言って手渡した毛編みの赤い帽子には当然のように白いカエデの葉のマークが記してある。まるでそれが危険を寄せつけないためのお守りであるかのように。
二人が綱を体にくくった途端、気球が激しく不安定な円を描きながら上昇を始めた。ちょうどカルヴィンの気が遠くなってきたとき、突然回転が止まり、周囲の空気が静かになった。二人は直径わずか一ヤードしかない竜巻の目に入ったようだ。ルービンはまるでそれが日常茶飯事であるかのように、ラジオゾンデのディスプレーを片手でつかみ、反対の手でベルトからクリップボードを取り出して、グラフに点を打ち始めた。
「この竜巻はすごいな。ハリケーンの場合と違って、竜巻が安定した目を持つことは非常に珍しい。しかし、それよりさらに信じがたいのは……この|断熱図《テヒグラム》を見なさい。本当に独特だ」。彼はグラフを四十五度傾けた。すると、点を結んだ線がほとんど垂直になる。「断熱図をこの角度に傾けると、エントロピーの軸が縦になる。私たちが上昇する間に、中心部のエントロピーがとんでもない速度で低下しつつある。通常のエントロピーを完全に反転させた形だ。まるで竜巻がマクスウェルの魔物そのものになったみたいだ」
「すみません。地面を離れた段階からお話について行けてません。数学とか理論とかが苦手なもので。でも、あの虹の向こうに見える物はいったい何? あの、空が真っ青に見えるところの?」。カルヴィンは竜巻の目が広がり、色とカーブが逆転した“逆さ虹”が見えている部分を指差した。そこはまるで、もう一つの、もっと輝かしい世界から照らされているかのように、まばゆい青の光に囲まれていた。
気球が上昇するにつれ、徐々に大きく見えてきたのはドイツ空軍の飛行船だった。側面には鉄十字のマーク、四機のエンジンを備え、前方に司令用のゴンドラがある。竜巻からの空気の流れが彼らを飛行船へ近づけ、やがて乗組員の姿も確認できるほど接近した。制服を着、|角兜《つのかぶと》をかぶった乗員が彼らに機関銃を向けた。
「ラジオゾンデの計測によるとエントロピーが劇的に低下している。これはつまり、不可逆なはずの熱力学的過程が逆行しているということだ。私たちの目の前で今、ロシュミットの逆説が起きている。竜巻の巨大な回転が時間の矢を逆転させたのだ。ひょっとしたら過去からの時間旅行者もいるかもしれない」
「え? それはつまり、あそこに飛んでいるのが過去の世界から時間に逆行して吸い寄せられた本物のドイツ空軍の飛行船だってこと? そんな訳の分からない、非論理的な話は今までに聞いたことがない」
「逆説というのは、筋が通らないから逆説なんだよ。私にもはっきり理解できているわけじゃないが、とにかく、もうここはアーカンソーじゃないみたいだぞ」
続く……
【訳者解説】
エントロピー、竜巻、時間旅行、飛行船、虹、ドイツ。
ホワイトウォーター疑惑とは、クリントン元大統領がアーカンソー州知事だったときの政治資金をめぐる疑惑。断熱図《エヒグラム》は、横軸に温度、縦軸に温位の対数を取り、等圧線、飽和断熱線、等飽混合比線が引かれたグラフで、大気の様子の垂直変化を示すもの(添えられた写真中央のグラフがそれ)。ローシュミットの逆説とは、エントロピーが不可逆に増大するとする熱力学の第二法則に関して、「時間対称的な力学から不可逆過程が導かれるはずがないので、どこかに間違いがあるはずだ」という反論のこと。逆さ虹は「環天頂アーク」とも呼ばれ、ネット上できれいな写真をいくつも見られます。マクスウェルの魔物(悪魔、魔)、エントロピーなどはピンチョンの読者ならなじみがあるはず。『競売ナンバー49』の中にも説明があります。
カルヴィンの名は絶対温度を表す単位のケルヴィンとかかっているかも。ゼファーム(Zephirm)の中にも西風(Zephyr)が隠れているかも。ルービン・エイサーの名前も何かありそうですが不明。
訳文中の「鉄十字」は「鉤十字」の間違いではありません。
締めくくりの台詞は、ピンチョンお気に入りの『オズの魔法使い』のドロシーの言葉「トト、ここはカンザスじゃないみたいよ」(『重力の虹』にも引用されている)のもじり。最後の最後の「続く……」は、本当に続くのかどうか不明(冗談?)。
(了)
2013年10月31日木曜日
これはゲームじゃない
ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳
これはゲームじゃない
(http://www.hashslingrz.com/its-not-game)
ハーマン・ランドは駅からハンティントンビレッジへ向かって長い距離を歩きながら、裏通りにあるあの小さな店をもう一度見つけられる自信が持てずにいる。見え見えのコピー商品。ケヴィン・コスナー主演『ポストマン』。新品のDVDなのに再生ができない。安物だったら文句は言わないが、今では近所のウォルマートでもその半額で売っているDVDだ。同じ場所をぐるぐる回っていた彼は幸運にも、二周目で店を見つけた。イタリアンの総菜屋の隣。まるでわざと客に見つからないようにしているかのように、目立たない店構えだ。
中には、店員以外誰もいない。「おたくが売ってるのは欠陥商品ですよ。これ、再生できませんでしたからね」
店員がパッケージに目をやる。「リージョン6。中国からの輸入品ってはっきり書いてありますよね。買う前にチェックした方がいいっすよ」。そう言って、壁に貼られた、戦略ボードゲーム「リスク」に使うボードらしき地図を指差す。
「今の話、あの地図と何か関係がある? 私をからかってるのかな」。ハーマンはいらつく。
「うちの店は、リージョン1以外のDVDを専門に扱ってます。DVDのリージョンマップと、そこの壁に貼ってる七〇年代の『リスク スペシャルエディション』を見比べたら、リスクの六大陸とDVDのリージョン分けがぴったり重なるんです。当時は、工業が盛んになった日本がヨーロッパを征服した格好になってる。でも、まあ、構わないっすよ。はい、返金します。でも今度からは、買う前にラベルを読んでくださいね」
ハーマンは自分のミスだったことに気付いて恥じ入りながら金を受け取る。「ありがとう。子供の頃はよくリスクをやったよ。でもすごく時間がかかる。ゲームが終わるのを見たことがない。あのゲーム盤、ずっと取っておけばよかったなあ」
「トイ・ソルジャーって店に行ってみたらどうです? メイン通りにある、変な委託販売店。先週、あの店には天井近くまでリスクが積んでありましたよ。制作年が違うバージョンが揃えてあった。でも、店のオーナーが変人でね。『ゲームは終わらない』ってのが口癖なんです」
ハーマンは駅に向かう途中でトイ・ソルジャーを見つけた。子供時代のノスタルジアを刺激された彼が店に入ると、挙動不審な男が棚から物を取っては大きな木箱にそれを放り込んでいる。そして、同じような木箱が床にいくつも並んでいる。
「何かお目当ての商品でも?」
「あなたが店のオーナー? リスクが手に入るかと思って、ここへ来たんですが。DVD屋の男から話を聞いて」
「最近はオンラインでよく売れてます。売れたらすぐに次の商品が届く。荷物には切手も貼られていなくて、どこから届くのかも分からない。昨日も同じように荷物が届いたんですが、今回は書類と謹呈票が添えられてました。謹呈票に書いてあったのは、今のうちに手を引けというメッセージ。だから今日は大サービス。あそこの棚にあるのは、一九五七年のフランス版『世界征服』。よく見てみてください。イスラエルの国境が六日戦争後のものとぴったり一致してるんですよ」
「それはつまり……何? 実は五七年に作ったゲームじゃないって意味?」
「それがあなたの解釈? リスクゲームに描かれたアフリカの地域分けは、一八八五年のベルリン会議で合意されたのとほぼ同じだって知ってました? もちろんゲームの方が会議より後に作られたんだから不思議じゃないってお思いでしょうが、話はそれで終わらない。というか、むしろ、そこから重大な話が始まってるんです」
彼はハーマンに、木でできた古いゲーム盤を見せる。板にはドイツ語で「世界征服、一七九五年」と刻まれ、ハーマンが歴史の授業で習った通りの、あるいはリスクのゲーム盤で覚えた通りの――彼は急に、それがどちらだったのか分からなくなる――アフリカ地図が記されている。そして、「ヨーロッパ征服」とフランス語で書かれた別のゲーム盤には、オーストリアとチェコスロヴァキアとポーランドが描かれている。
「オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊する十年前に制作されたものです。ポーランドの国境だって、カーゾン線とぴったり一致する。それだけじゃない。うちに届く荷物には書類が添えられるようになった。機密書類のリークです」
彼はフォルダーを手に取り、書類をばらまく。ニクソンがオフィスで使っていたメモ帳らしき紙に手描きされた地図には、国内の動揺が極限に達した場合の、アメリカ国土東西分割案が詳細に記されていた。見慣れない縦書きの文字を添えた地図では、モンゴルから朝鮮半島に矢印が伸びている。ロスチャイルド系列から出された手紙では、金融危機が生じた場合、EUを北・西・南の各地域に分断するアイデアが提案されている(イギリスについては言及なし)。ドン・チェイニーあるいはディック・チェリーによる署名があるメモには、アフガニスタンとイランに絡む問題の解決法として、二国を合併し、国境を北へ移すという提案が書かれている。
「リスクのゲーム盤は世界を、方向の定まらないグラフとして描いている。領土のノードは辺で結ばれ、プレーヤーは交点の一つ一つで選択を迫られる。ゲーム盤は、起きた出来事を振り返るための分析にも使えるし、これから起きることの予測にも使える。何百年も前からエリートはこれをゲーム理論に使って、世界を分割し、再分割してきた。時々間違いが起きて、秘密の戦術があちらの世界からこちらの世界に漏れることがある。でも、ボードゲームに見せかけてあるから、普通の人にはゲームにしか見えない。でも実はゲームじゃない。これ以上にうまい偽装はないでしょうね」
「先週には、リスクの|一人プレー《ソリティア》版が届きました。全世界郵便連合スペシャルエディション。世界全体が一つの|地域《リージョン》として青く塗られていて、それ以外の国境とか、地域分けが何もない。プレーヤーはサイコロを振って小さな内乱を起こす。ゲームの使命は内乱を鎮圧すること。でも私は今、ちょっと急いでるんです。ほら。全部持ってってください。代金は要りませんから」
「すごいコレクションだ。これだけ揃えた人は、よっぽどこのゲームが好きなんでしょうね。でも私は一つでいいんです。こんなにたくさん、駅まで運べないし」
「あなた、話を聞いてなかったの? まだこれをただのゲームだと思ってる? さっさと行動しないとやばいよ。あなたも、私も、他のみんなも。知らん顔してれば逃れられると思ってる?」。興奮した店主の目がほとんど眼窩から飛び出しそうになる。
「ああ、もういいです。何も要りません」とハーマンが立ち上がる。
「私のためとは言わない。人類のために、|一人プレー《ソリティア》版を持ってってください。リスクに終わりはない。それだけは絶対、間違いない」
ハーマンはゲームを手に取り、店を出て、駅のある南へ向かう。そのとき、二台のトラックが止まる。車の側面には何も文字が書かれていない。球体の周りで踊る五人のメッセンジャーを描いたロゴだけ。五人のうち一人はアメリカ先住民だ。ガードマンらしき男らがヴァンから出てくる。何人かは角の向こうに回り、別の数人が店に入る。おもちゃの兵隊みたいな動きだ、とハーマンは思う。でも、あのロゴ、|一人プレー《ソリティア》版のゲームに記されていたのと同じデザインじゃなかっただろうか?
【訳者解説】
DVDのリージョンは0(フリー)以外に、北米を中心とする1、西ヨーロッパと日本を含む2、中国全土の6などに分けられています(詳しくはウィキペディアを参照)。リスクというゲームについては、日本ではあまりなじみがない気がしますので、こちらもウィキペディアを参照してください。
六日戦争とは、一九六七年六月の第三次中東戦争のこと。他も細々した世界史情報が織り込まれていますが、余計なお世話の気がするので説明は省きます。
ゲームに見せかけた世界征服計画。陰謀論とゲーム。郵便システムと世界統一。これまたよくできた短編です。
(了)
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