厄介な質問
(http://www.hashslingrz.com/awkward-question)
ハッシュスリンガーズ著 佐野知足・木原善彦訳
夏のカラカラした暑さが嘘のように、夕方には湿った暖かさを残して雨は北の丘陵へ去っていった。ダマスカスの陥落から一か月も経たぬうちに多くのことが変わった。まずオスマン帝国との休戦協定が結ばれ、次いでドイツとの休戦協定で話題は持ちきりである。ベルリンでは革命が政権を制し、皇帝はオランダへ亡命し、ロレンス中佐はロンドンに戻っていった。キャベンディッシュ=メドウズ大佐とシャリーフ軍の砂漠での奮闘はほぼ終わりかけていたが、まだ戦闘中のハーシム家の兄弟たちを残して去るわけにはいかなかった。ダマスカスという町では、まだ何が起きるかわからない。
「あぁ、この不潔なヴィクトリアホテルは退屈すぎて耐えられないよ。オマール君、バルジールレストランで川を臨んでディナーなんてどうだい」と、いつも冒険をご所望のキャベンディッシュは言った。
「我が友よ、我々はアルカバからダマスカスまで砂漠の長い旅路を共にしてきた。タファスのいたる廃墟で切断された遺体を目撃し、死にゆく子供たちを腕の中で看取ってきた。その血が砂漠の砂に染み込み冷たくなるまでトルコ人を銃と剣で八つ裂きにした。そして我々は共にダマスカス――アラブ国民の新しい首都――を陥落させた。我々が歴史を作った。今夜は銃を休め、ちゃんとした夕食を共にすることが私の至高の喜びだ」
バルジールはお客で溢れかえっていたが、ウェイターが店の奥の方の小さなテーブルに彼らを案内した。アヤメの模様が描かれた分厚い革製のメニューを手渡され、キャベンディッシュとオマールはそれに注意深く目を通した。このようなかたちでの夕食は、アルカバからメディナにかけて数多くの勝利を経て、やっと辿りついたダマスカスで初めてのことであった。
「キャベンディッシュ、ラタトゥイユ・プロヴァンスとは何だ」
「ガーリックとオリーブオイルで野菜をソテーにしたプロヴァンス地方の郷土料理さ。南フランスはこの時期実に美しい。もっとも、もし君に行く機会があるのならば、私は夏に行くことをお勧めするがね。夏の南フランスはラベンダーの香りに包まれ、一面に紫色をした野原が広がっているんだ」
「アラブの勝利の日にフランス料理はごめんだ」
「じゃあ、それはまた来たときにでも頼みたまえ。君はきっとフランス人が作るものを気に入るよ。でも、今夜は違うものを食べることにしよう」
「ココヴァン、エスカルゴ、コンフィート・デ・カナード…ここにはフランス料理しかないのか?」オマールは次第に不機嫌になって、ウェイターを大声で呼びつけた。「このメニューの意味を説明しろ。ここはパリじゃないんだぞ」
「何か問題でもございましたか、お客様」
「オマール君、ここは私に任せてくれ。駆け引きはイギリス人の得意とすることろだから。私からちゃんと言って聞かせよう」。キャベンディッシュは斜め後ろのウェイターに向き直った。「すまないが、君《ギャルソン》。我が友人は自転車に乗った玉ねぎ売りの料理は食べたくないらしいのだが、私の言っている意味がわかってもらえるかな?」
「もちろんです、お客様。我々はすべてのお客様にご満足いただけるようメニューに載せていないものも含め、世界中のあらゆる料理を取り揃えております。今夜のオススメはペスチェ・アラ・ピッツァイオーラでございます。」
「イタリア産のメカジキかね」
「そうでございます。こちらはイタリア人のお客様にも気に入って頂けました。もっとも、その客様はお料理の"分け前"をご所望なさっていたのですが、この場合"分け前"の意味が曖昧でして、おかげで少々混乱を招いてしまいました 」
「メカジキが友人の意向に沿うとは思えないね。他に何かあるかね」
「では、ウォルドーフサラダはいかがでしょう。こちらはアメリカ航海部局のお客様に大変気に入って頂きまして、海兵の方々がこれを求めてはるばる陸地に上がってくるほどです」
「ばかばかしい。行方の分からなくなった当番兵をアメリカ海軍情報局の連中が探すなんて。なんせ彼らはオックスブリッジをイギリスにある村だと思っているくらいだからね。今夜はサラダの気分ではないんだ」
「それではゲフィルトフィッシュのホースラディッシュ添えはいかがでしょう。こちらは香り高く……」
「アラブの反旗が600年に渡るオスマントルコの支配に打ち勝った日にユダヤ人の料理を食えっていうのか!」。オマールは怒気をはらんだ声を上げた。
「先日ドイツ人のお客様がいらした際に、将来多くのユダヤ人のお客様が来られることを予測して、ゲフィルトフィッシュなどの他の興味深い料理を用意してはどうか、とご意見を頂きまして。おかしなことに、そのお客様はユダヤ料理が特別好きな様子でもなかったのですが、きっと誰か他の方のためにそう言ってきたのでしょう」
隣の席に座っている顔に痘痕のある男が、今しがた巻いたばかりのタバコをテーブルに置くと、オマールの方に体を傾けてきた。男の息からはトルコ産タバコの強烈な臭いがした。「同志よ、お前さんはヨーロッパのもんを口にしたくないようだからアドバイスさせてくれ。ニシンのサラダ《セリョートカ・パト・シューバイ》なんてどうだい。フランス人はメニューを勝手にいじるばかりだが、モスクワ人は現物をもってくる点で信用できる」
キャベンディッシュが手を上げて男を制した。「横から口出ししないで頂きたい。我々はどの役割をフランスに果たしてもらうかという点も含め、互いの利益を調整した末の非常に慎重な合意に達しようとしているのです。あなたに邪魔されることなく、ね」。明らかに、ここから先はロシア人に口を挟ませないという態度だ。
ダマスカスは果たして望んだ通りのものなのだろうか、ここにきて初めて、そんな疑問がオマールに思い浮かんだ。「キャベンディッシュ、今日は我々が砂漠の地で誓い合った義兄弟の契りを祝おう。我々はオスマン人を打破し、ダマスカスに辿り着いたのだ。今は我々の勝利を簡単なアラブの食べ物で祝おうじゃないか。ファタールにフムス、あと少しのヨーグルトがあれば十分だ」
「我が遊牧の戦士よ、私を信じてくれ。君は不毛の砂漠でわずかな食べ物を見つけ生きる魔術師のような人だ。しかし都市の生活とは複雑なものなんだ。だから、君はやはりフランス料理を食べるべきだ。メニューにあるものから選びたまえ。今は余計なことを言わない方がいい」
ロシア人がオマールの方を向いて、耳元で囁いた。「おまえさんはもうサイクス・ピコ協定についてそのイギリス人のご友人とは話し合ったのかい? これはなかなか厄介な質問だからね、今夜は尋ねないほうがいいかもしれない。だけど、いつかは必ず訊いてみるんだな。メニューに載っているのが本当は何か、ってね。わしは毎晩ここで夕食をとっているから、おまえさんがここで出されるものを気に入るかどうかは知らんが、話したくなったらいつでも来るがいい」
【訳者解説】
久しぶりに、ハッシュスリンガーズの短編の翻訳を掲載します。二〇一四年四月から始まった新しい授業で、翻訳の実践として受講生(院生)に翻訳してもらい、それに木原が手を入れる形で、ここに掲載します。誤字、誤訳などは木原の責任です。
世界史に関連する部分がかなり重要なので、少し説明を。
最後の方に言及があるサイクス・ピコ協定は、第一次世界大戦中の一九一六年五月十六日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。これが分からないと話のポイントが見えてきません。アラブ人がオスマントルコを打ち負かして自分たちの国を作るはずが、英仏露の秘密協定でそれを裏切られる(そしてロシアの革命政府が秘密を暴く)という歴史の筋書きをレストランの風景が再現しています。「遠からず、ユダヤ人がたくさん中東に来る」とドイツ人が予言するのも皮肉がきいています。
(ちなみに私はどこかで、「911の同時多発テロはサイクス・ピコ協定のバックラッシュだ」という発言を見かけたことがあります。)
最初の方に登場するロレンスは、映画『アラビアのロレンス』のロレンス。
料理名は注を付けていませんが、たとえば、ロシア料理の「ニシンのサラダ」は東欧料理の店のHP(http://www.hotpepper.jp/strJ000010375/)などで写真を見られます。
「ウォルドーフサラダ」はウィキペディアに説明あり。
「ゲフィルトフィッシュ」はユダヤ料理におけるかまぼこみたいなものです。
(了)
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