2014年4月25日金曜日

風に吹かれる古びたゴミバケツ



風に吹かれる古びたゴミバケツ
(http://www.hashslingrz.com/ancient-trash-cans-wind)
ハッシュスリンガーズ著 藤木祥平・木原善彦訳


 いつもと同じように孫の世話を任されたフルトン爺さんは、ジョーがハロウィン用の衣装を着るのを手伝ってやった。アルミ箔で覆われ、爺さんが屋根裏で見つけてきた雑多な電子ダイヤルやメーターで飾り付けられた、二つの段ボール箱からなるロボットの仮装だ。
 「なあジョー、お前さんの衣装を見ていると一九三一年のハロウィンを思い出すよ。今でも思い出す夜だ」。フルトン爺さんはまたまた老人特有の思い出話を語りだし、ジョーはといえば二つの特大段ボールを身にまとっているせいで逃げようにも逃げられず、聞き役として捕まってしまった。
 「三一年にシカゴのとある大富豪がシカゴ美術館設立のための資金を募るためにハロウィン仮装舞踏会とコンサートを企画したんだ。会場は一八九三年にシカゴ万博で使われた現存する唯一の建物、パレス・オブ・ファイン・アーツ さ。建物も柱も彫像も見かけは立派で新古典主義的だけれども全部まがいもの、ただ正面を漆喰で塗り固めただけのものだよ。舞踏会のテーマは産業と科学で、独創的なコンサートいうことで専門家に作曲を依頼することになった。アメリカ人の作曲家、ジョージ•アンタイルがヨーロッパから帰ってきて、彼の最初にして唯一の交響曲『ロボットのための都市産業のサウンドスケープ』を書き上げたんだ。曲には伝統的なオーケストラの楽器は必要なくて、アンタイルは代わりに発明家のニコラ•テスラ と共同して一連の電子楽器の開発をしたのさ。わざわざその初演のために。彼は言った、ユニークな音楽にはユニークな楽器が必要だ、と。わしはそのときニコラ•テスラの弟子でね、電子モーターにケーブルをつける仕事をやらされていた。それで無料のチケットを手に入れたってわけさ。
 「舞踏会の夜、参加者は皆、奇抜な衣装で会場にやってきたよ。伝統的な魔女や悪魔の格好をするような大胆な奴は少なくて、ベラ・ルゴシ やボリス・カーロフ の最新の映画のキャラクター――犬歯から血を滴らせるドラキュラや首からボルトの突き出たフランケンシュタインだな――に仮装する流行好きの方が多かったね。スヴェンガーリ に仮装してた男も一人いたな。近くにきた女全員に催眠をかけようとしておったよ。予想はつくだろうがパーティーのテーマがテーマだから多くの連中は宇宙飛行士やロケット式宇宙船の格好をしていたんだ。それにあらゆる種類のロボットだ。フリッツ・ラングの『メトロポリス』 に登場したマリアみたいなアンドロイドも何人かいたね。
 「交響曲は連中がメインの展示室にごった返しているときに始まった。テスラの電気機械オーケストラはいくつかのセクションに分かれていたんだ。一つ目のセクションは鉄パイプとチューブに繋がれた蒸気エンジンから構成されていて、汽笛の音やシューッといった音を出していた。また別のセクションでは電子モーターが使われていて、ベアリングはすでに使い古されたものか、あるいはわざと古く見えるようにしてあったね。それがバランスの悪い回転式おもりに取り付けられていたんだ。モーターが回るとベアリングはブツブツ、ゴロゴロと音を立てて台の上で共鳴し、モーターの速度に合わせて盛り上がったり弱まったりして、奥行きのあるハミングをつくり出していた。東側ではベルトやカムシャフトを介してもっと多くのモーターが接続されていて、それが発振器の槌を上下に運動させ、その槌が様々な大きさの金属製や木製、プラスチック製の板を叩いていた。西側では鎖に繋がれたブロンズ製のベルが一組、鉄格子を横切る形で引きずられていてね。鎖がドラム缶の上で繰り返し絡まっては解け、まるで風に吹かれる古びたゴミバケツみたいな音を産み出していたんだよ。
 「建物の壁を背にして置いてあったのは蒸気動力の振動器で、それがあのテスラコイルなんだが、建物の自然周波数に合わせられていた。こいつらがドシン、ドーンと大きな音を出して音楽の基調音を出していたんだ。周波数がすごい低かったものだから、通り過ぎるときに大きい方を漏らしちまう参加者もいた。全てのオーケストラの機械はゴムやクロム合金を身にまとった等身大のロボットが運転していた――おそらくテスラ自身の信念である、人間の魂なんてものは外的刺激によってコントロールされる自動式ロボットに過ぎない、ということを表していたんだろうな。
 「メインホールの中心では、二十フィートあるテスラコイルの下で、タンクの中の様々な海の生き物が出す有機的な音が録音されていて、それから電子回路のバンク、フンフンと音のなる真空管、抵抗器、そして蓄電器と通過していき、その音が電磁波によって再び増幅され、建物中の拡声器に送られていくのさ。あるタンクからは、水中に放たれたメスのホルモンに発情したオスのガマアンコウ の脈打つような低い唸り声が聞こえてきた。また別のタンクはテッポウエビを収容していて、そいつらはゆっくりと餌の小魚を与えられているんだ。そいつらのでっかいはさみが閉じられ、キャビテーションによる泡が発生して打楽器的なパチンという音が出されて獲物を仕留める。そしてその音が全部、水中マイクに拾われてパーティーの連中に向けて増幅され反響していたんだ。
 「オーケストラの最後のパートは聴衆自身で、拡声マイクの拾った『ブー』や『テュッ』や『クッ』といった音をうまく曲にしていたんだ。まるでドラムやシンバルの音を模倣してるみたいだったね。ジョー、あれは確かに未来の音だったよ。
 「この話の残りの部分はお前みたいな子供にはちょっと刺激が強いかもしれんが今日はハロウィンだしな、構うもんか。ただママには喋るなよ。工場みたいな不協和音の中で皆がアルコールを飲みたくなるのはほとんど必然で、それに夜中頃にはパーティーは大いに盛り上がっていたんだ。忘れるなよジョー、この時期は禁酒法の真っ只中でみんなの奇抜な衣装には一本か二本、スコッチやウォッカを入れるための隠しポケットがあったんだが、持ってきた分はすぐに底をついちまった。酒を補充するために車が送り出されていたね。アル・カポネ の貯蔵庫はシカゴの善良な市民のための融通の利く税金還付所といったところで、今や奴はそれでムショの中だがね、ジンやウォッカ、ウィスキーが大量に到着し始めた。自由奔放な酒、交尾中の魚の匂い、テスラ振動器のほとんど原始的なハミング――当然ながら、誰もが陽気にはしゃぎだした。手はよからぬ方向へとさまよい始め、時折歓迎されては拒絶もされ、はたまた別の場所では拳が飛び交い、けんか騒ぎが勃発する。アンドロイドのマリアが二人、お互いの金属製の乳房の桁外れな大きについて侮辱し合った後、トイレでけんかしているのを見た人もいた。
 「パーティーが面白くなるにつれて――あるいは人によってはそれを下品というだろうが――雷を伴った嵐がミシガン湖に吹き荒れ始めた。テスラの機械が引き起こしたか、あるいはそれに引き寄せられたのか、それは誰にもわからんよ。どっちにしろ、巨大な稲妻を伴った雷が空から落ちてきたんだ。そいつは発電機を直撃してオーケストラの回路に無理な負荷をかけた。音量は耳がおかしくなるくらいまで跳ね上がった。悪夢だったね、まったく。みんな仰天して文字通り恐怖で凍り付いたよ。テスラ振動器は制御できないくらいに建物の骨組みを揺らして、環状のフィードバック装置も作動させることができず、漆喰のファサードは崩れだした。最悪の事態を恐れて、テスラはばかでかい主電源を引き抜いた。火花は散ったが、システムのなかにすでに莫大なエネルギーが蓄積されていたものだからもう手遅れだった。建物のファサードは崩れ落ち、まさに建物そのものが崩壊しているように見えた。パレス・オブ・アート周辺の通りは、倒れたり粉々になった女人像柱や男像柱で埋め尽くされたよ。
 「それから突然、嵐は止んだ。遠くから警察のサイレンも聞こえた。酒飲みたちはすぐにエリオット・ネス と酒類取締局の警官隊が向かってきていることに気がついた。みんな一目散に逃げ出したよ、その晩の出来事がばれないようにね。その後誰一人としてテスラの不可思議な機械をどうすべきかわからずじまいだった。今でもまだ、まさしく同じその建物にそいつはあるよ ―今はシカゴ産業博物館 というがね。これは本当の話なんだぜ、ジョー」


【訳者解説】
 時代感覚と時代錯誤、大衆文化の断片と、メカニカルなガジェットがほどよく混じった短編です。
 パレス・オブ・ファイン・アーツという建物は、現在のシカゴ科学産業博物館。ミシガン湖の近く、シカゴ南部のハイド・パーク地区にあるジャクソン・パーク内に所在。なので、この物語全体が、「あの建物が博物館になった経緯」として語られています。もちろん壮大な作り話。1893年開催のシカゴ万国博覧会において「パレス……」という名称で使われた建物。1933年のシカゴ万国博覧会期間中にシカゴ科学産業博物館として開館した。
  アンタイルは、アメリカ合衆国の作曲家・ピアニスト。最も名高い作品は、1926年の「バレエ・メカニック」。ユーチューブで聴けます。この曲において踊り子を演ずるのは機械であり、電子ブザーや航空機のプロペラといった部品が含まれ、この作品は初演において、騒動と評論家の非難を巻き起こしました。
 ニコラ・テスラは、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システム(世界システム)を提唱したことでも知られる。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。ベラ・ルゴシは主にアメリカ合衆国で活動したハンガリー人俳優。『魔人ドラキュラ』(1931年)におけるドラキュラ役として有名。ボリス・カーロフは、主にアメリカで活躍した俳優。世界中の誰もが「フランケンシュタイン」と聞いて思い浮かべる、面長で頭部が平たく、額が張り出した無表情なモンスター役をユニバーサル映画『フランケンシュタイン』(1931年)で最初に演じた俳優として知られる。スヴェンガリは、ジョージ・デュ・モーリアによる1894年の小説『トリルビー』に登場する催眠術師。『メトロポリス』はフリッツ・ラング監督によって1926年(大正15年)製作、1927年に公開されたモノクロサイレント映画で、ヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画。SF映画に必要な要素が全てちりばめられており「SF映画の原点にして頂点」と称される。これらはピンチョンの作品を読んでいる人にはおなじみだと思います。

 ガマアンコウと訳した魚は、正確にはガマアンコウ科に属するPorichthys notatusのことでplainfin midshipmanという名でも呼ばれる。求愛を行う際に鳴き声を発することで有名。鳴き声はhttp://jp.sciencenewsline.com/articles/2013103019329000.htmlで聞くことができます。
 テッポウエビがはさみを急に閉じることで特殊な泡を発生させ、衝撃波で獲物を仕留めるという話も本当の話で面白い。参考までに詳しいホームページはこちら
 アル・カポネは言わずとしれたアメリカのギャング。彼を逮捕したのがエリオット・ネス。ネスはFBIではなくて、財務省の酒類取締局(Bureau of Prohibition)の捜査官でした。
 そうそう、ちなみに途中で、みんなが「『ブー』や『テュッ』や『クッ』といった音」でパーカッションをする部分がありますが、ここは故意の時代錯誤。ヒューマンビートボクサーのDaichiさんがこちらのビデオでボイスパーカッションの最初の練習法を紹介されていますが、「ブーツカット」と発音するのが第一歩らしい。「『ブー』や『テュッ』や『クッ』」というのはまさにその音のこと。だから、「未来の音」というのは、現在の私たちの知るボーカルパーカッションの流行のことです。

注を付けだしたら切りがないですね。

(了)


2014年4月17日木曜日

厄介な質問

厄介な質問
(http://www.hashslingrz.com/awkward-question)


ハッシュスリンガーズ著 佐野知足・木原善彦訳


 夏のカラカラした暑さが嘘のように、夕方には湿った暖かさを残して雨は北の丘陵へ去っていった。ダマスカスの陥落から一か月も経たぬうちに多くのことが変わった。まずオスマン帝国との休戦協定が結ばれ、次いでドイツとの休戦協定で話題は持ちきりである。ベルリンでは革命が政権を制し、皇帝はオランダへ亡命し、ロレンス中佐はロンドンに戻っていった。キャベンディッシュ=メドウズ大佐とシャリーフ軍の砂漠での奮闘はほぼ終わりかけていたが、まだ戦闘中のハーシム家の兄弟たちを残して去るわけにはいかなかった。ダマスカスという町では、まだ何が起きるかわからない。
 「あぁ、この不潔なヴィクトリアホテルは退屈すぎて耐えられないよ。オマール君、バルジールレストランで川を臨んでディナーなんてどうだい」と、いつも冒険をご所望のキャベンディッシュは言った。
 「我が友よ、我々はアルカバからダマスカスまで砂漠の長い旅路を共にしてきた。タファスのいたる廃墟で切断された遺体を目撃し、死にゆく子供たちを腕の中で看取ってきた。その血が砂漠の砂に染み込み冷たくなるまでトルコ人を銃と剣で八つ裂きにした。そして我々は共にダマスカス――アラブ国民の新しい首都――を陥落させた。我々が歴史を作った。今夜は銃を休め、ちゃんとした夕食を共にすることが私の至高の喜びだ」
 バルジールはお客で溢れかえっていたが、ウェイターが店の奥の方の小さなテーブルに彼らを案内した。アヤメの模様が描かれた分厚い革製のメニューを手渡され、キャベンディッシュとオマールはそれに注意深く目を通した。このようなかたちでの夕食は、アルカバからメディナにかけて数多くの勝利を経て、やっと辿りついたダマスカスで初めてのことであった。
 「キャベンディッシュ、ラタトゥイユ・プロヴァンスとは何だ」
 「ガーリックとオリーブオイルで野菜をソテーにしたプロヴァンス地方の郷土料理さ。南フランスはこの時期実に美しい。もっとも、もし君に行く機会があるのならば、私は夏に行くことをお勧めするがね。夏の南フランスはラベンダーの香りに包まれ、一面に紫色をした野原が広がっているんだ」
 「アラブの勝利の日にフランス料理はごめんだ」
 「じゃあ、それはまた来たときにでも頼みたまえ。君はきっとフランス人が作るものを気に入るよ。でも、今夜は違うものを食べることにしよう」
 「ココヴァン、エスカルゴ、コンフィート・デ・カナード…ここにはフランス料理しかないのか?」オマールは次第に不機嫌になって、ウェイターを大声で呼びつけた。「このメニューの意味を説明しろ。ここはパリじゃないんだぞ」
 「何か問題でもございましたか、お客様」
 「オマール君、ここは私に任せてくれ。駆け引きはイギリス人の得意とすることろだから。私からちゃんと言って聞かせよう」。キャベンディッシュは斜め後ろのウェイターに向き直った。「すまないが、君《ギャルソン》。我が友人は自転車に乗った玉ねぎ売りの料理は食べたくないらしいのだが、私の言っている意味がわかってもらえるかな?」
  「もちろんです、お客様。我々はすべてのお客様にご満足いただけるようメニューに載せていないものも含め、世界中のあらゆる料理を取り揃えております。今夜のオススメはペスチェ・アラ・ピッツァイオーラでございます。」
 「イタリア産のメカジキかね」
 「そうでございます。こちらはイタリア人のお客様にも気に入って頂けました。もっとも、その客様はお料理の"分け前"をご所望なさっていたのですが、この場合"分け前"の意味が曖昧でして、おかげで少々混乱を招いてしまいました 」
 「メカジキが友人の意向に沿うとは思えないね。他に何かあるかね」
 「では、ウォルドーフサラダはいかがでしょう。こちらはアメリカ航海部局のお客様に大変気に入って頂きまして、海兵の方々がこれを求めてはるばる陸地に上がってくるほどです」
 「ばかばかしい。行方の分からなくなった当番兵をアメリカ海軍情報局の連中が探すなんて。なんせ彼らはオックスブリッジをイギリスにある村だと思っているくらいだからね。今夜はサラダの気分ではないんだ」
 「それではゲフィルトフィッシュのホースラディッシュ添えはいかがでしょう。こちらは香り高く……」
 「アラブの反旗が600年に渡るオスマントルコの支配に打ち勝った日にユダヤ人の料理を食えっていうのか!」。オマールは怒気をはらんだ声を上げた。
 「先日ドイツ人のお客様がいらした際に、将来多くのユダヤ人のお客様が来られることを予測して、ゲフィルトフィッシュなどの他の興味深い料理を用意してはどうか、とご意見を頂きまして。おかしなことに、そのお客様はユダヤ料理が特別好きな様子でもなかったのですが、きっと誰か他の方のためにそう言ってきたのでしょう」
 隣の席に座っている顔に痘痕のある男が、今しがた巻いたばかりのタバコをテーブルに置くと、オマールの方に体を傾けてきた。男の息からはトルコ産タバコの強烈な臭いがした。「同志よ、お前さんはヨーロッパのもんを口にしたくないようだからアドバイスさせてくれ。ニシンのサラダ《セリョートカ・パト・シューバイ》なんてどうだい。フランス人はメニューを勝手にいじるばかりだが、モスクワ人は現物をもってくる点で信用できる」
 キャベンディッシュが手を上げて男を制した。「横から口出ししないで頂きたい。我々はどの役割をフランスに果たしてもらうかという点も含め、互いの利益を調整した末の非常に慎重な合意に達しようとしているのです。あなたに邪魔されることなく、ね」。明らかに、ここから先はロシア人に口を挟ませないという態度だ。
 ダマスカスは果たして望んだ通りのものなのだろうか、ここにきて初めて、そんな疑問がオマールに思い浮かんだ。「キャベンディッシュ、今日は我々が砂漠の地で誓い合った義兄弟の契りを祝おう。我々はオスマン人を打破し、ダマスカスに辿り着いたのだ。今は我々の勝利を簡単なアラブの食べ物で祝おうじゃないか。ファタールにフムス、あと少しのヨーグルトがあれば十分だ」
 「我が遊牧の戦士よ、私を信じてくれ。君は不毛の砂漠でわずかな食べ物を見つけ生きる魔術師のような人だ。しかし都市の生活とは複雑なものなんだ。だから、君はやはりフランス料理を食べるべきだ。メニューにあるものから選びたまえ。今は余計なことを言わない方がいい」
 ロシア人がオマールの方を向いて、耳元で囁いた。「おまえさんはもうサイクス・ピコ協定についてそのイギリス人のご友人とは話し合ったのかい? これはなかなか厄介な質問だからね、今夜は尋ねないほうがいいかもしれない。だけど、いつかは必ず訊いてみるんだな。メニューに載っているのが本当は何か、ってね。わしは毎晩ここで夕食をとっているから、おまえさんがここで出されるものを気に入るかどうかは知らんが、話したくなったらいつでも来るがいい」


【訳者解説】
 久しぶりに、ハッシュスリンガーズの短編の翻訳を掲載します。二〇一四年四月から始まった新しい授業で、翻訳の実践として受講生(院生)に翻訳してもらい、それに木原が手を入れる形で、ここに掲載します。誤字、誤訳などは木原の責任です。

 世界史に関連する部分がかなり重要なので、少し説明を。
 最後の方に言及があるサイクス・ピコ協定は、第一次世界大戦中の一九一六年五月十六日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。これが分からないと話のポイントが見えてきません。アラブ人がオスマントルコを打ち負かして自分たちの国を作るはずが、英仏露の秘密協定でそれを裏切られる(そしてロシアの革命政府が秘密を暴く)という歴史の筋書きをレストランの風景が再現しています。「遠からず、ユダヤ人がたくさん中東に来る」とドイツ人が予言するのも皮肉がきいています。
 (ちなみに私はどこかで、「911の同時多発テロはサイクス・ピコ協定のバックラッシュだ」という発言を見かけたことがあります。)

 最初の方に登場するロレンスは、映画『アラビアのロレンス』のロレンス。
料理名は注を付けていませんが、たとえば、ロシア料理の「ニシンのサラダ」は東欧料理の店のHP(http://www.hotpepper.jp/strJ000010375/)などで写真を見られます。
ウォルドーフサラダ」はウィキペディアに説明あり。
ゲフィルトフィッシュ」はユダヤ料理におけるかまぼこみたいなものです。

(了)