2014年5月29日木曜日

クイック・パラディドル



クイック・パラディドル(箸を使って)
(http://www.hashslingrz.com/quick-paradiddle-her-chopsticks)

ハッシュスリンガーズ著 舞さつき・木原善彦訳

 ワシントンの中心街にあるレストラン、レゾニョン(Les Oignons)の厨房でせわしなく働くリリアンの心は浮き立っていた。WJSVのラジオキャスターは、ヨーロッパでまた戦争が起きそうだと話している。リリアンは彼を無視し、ゴスペルの時間を心待ちにしていた。リンカーン記念館でマリアン・アンダーソン が歌うのを見たのは二日前のことだ。大統領夫人の後押しのもと、彼女は観客に向けて歌った。

音楽がそよ風を吹かせ
すべての木々から鐘が鳴る
素晴らしい自由の歌

 リリアンは歌い始め、料理長《シェフ・ド・キュイジーヌ》のジャックの方を向いた。彼が一緒に歌ってくれることを期待して。しかしどうやら彼は歌う気分ではないらしい。
「あら深刻な顔しちゃって、ジャック。何かあったの」
 ジャックはレゾニョンの歴代シェフの中で一番の腕前だった。彼はスフレを作っている最中で、泡立て器を両手に、右手は円を描くように、一呼吸遅れたリズムで左手でも掻き混ぜていた。右左、右左。
「また白人どもの戦争が始まるよ、リリアン。やつらはニグロを戦地に送るだろう、間違いない。けど今回は騙されない。俺は世界大戦《グレート・ウォー》の時、向こうで戦ったんだ。なにがグレートなもんか。あるのは泥沼か血の海。そこで銃弾が鈍い音を立てて胸に当たるのを待つか、悪けりゃ毒ガスの中で吐いて死ぬかだ」
「あんたが昔の話をするなんてね。どうしてフランスに行くことになったの、ジャック」
 ジャックは自分の過去を話したがらない人だった。リリアンが彼を知ってから一年かそこらが経っていたが、彼がレゾニョンに来る前の話をするのはこれが初めてだ。
「俺はジョージアのオールバニーで生まれた。母ちゃんと父ちゃんは俺をユージーンと呼んだよ。学校ではジーンだ。幼い時だった、俺は夜に父ちゃんが暴徒にリンチされるのを見たんだ。そしてヨーロッパへ逃げたのさ。フランスの外人部隊に入隊して、名前の綴りをフランス風にJacquesに変えた。ソンムで戦う羽目になって、戦場に横たわる何百もの亡骸を見たよ。ハリケーンの後に浜に打ち上げられた流木みたいだった。休戦後、アメリカに戻ってもすることがないからパリへ出た。フランス料理の技術を学ぶためにね。フランス共和国に人生を捧げようとしたんだが、戦争が終わりゃ俺は勇ましい英雄でもなんでもない、ただのアメリカのニグロさ。誰も俺をシェフ見習いにしようとしない。やっと見つけた仕事はハウスバンドのパーカッション奏者だった。モンマルトルの裏通りのナイトクラブでだ。俺を羨むやつもいるだろう。素晴らしい仲間と演奏していたからね。シドニー・ベシェ 、ジャンゴ 、ルイ・ミシェル にジョセフィン・ベーカー ……でも俺が憧れてやまなかったのは、完璧なクレーム・ブリュレの秘密だった」
 ジャックはボウルの端でキレの良いタップを交互に四回行い、泡立て器に付いた卵を落とした。そして手を伸ばし、パン生地の入った三十リットルボウルを鍋の上から降ろした。彼は夜に出すブリオッシュのため、それをこね始めた。肘は横に、手のひらは下に。ジャックはたくましい男で、肩幅は広く、手もとても大きかった。彼にかかれば作業は朝飯前だ。リリアンはよく彼をからかっていた。あんたが麺棒を使ったら、まるでお箸みたいね、と。ジャックはバター入りペストリー生地を、ダブルストロークパターンを使ってこねる。左は優しく、右は強めに。ドラッグタップで左右を入れ替え、生地を引き伸ばしては持ち上げ、リズムを上げながらそれを繰り返す。最後はオーク製まな板の上で、マルチプルバウンスロール。
「毎晩、俺はナイトクラブの隅に置いてあったラディックドラムの前に座らされた。けれども、いつも厨房のシェフの動きをタム越しに覗き込んでたよ。やつがやることは何でも見えていた。すぐにそいつのみじん切りを俺は真似し始めた。家に帰ってバンドメンバーに夕食を作るようになって、ドラムを叩きながらこっそり調理方法を学んで、どうにかして俺流の調理スタイルを編み出した。俺の腕はまずまずのもんで、どの料理もオリジナルだった。ある夜、キャバレーの歌い手でベルリン生まれのヒルデ・ウルフクローネが俺のシュー・ア・ラ・クレームを食べた。彼女はそれを気に入り、小さなクロッケンブッシュのため昼前に、俺のとこに立ち寄るようになった。いつのまにか単純にお菓子を楽しむ以上の仲になっていった。関係が始まり、時間さえあればいつもこそこそ彼女と会ってたよ。俺たちは誰も止められないくらい激しく愛し合った。最高だった、フランス人になった気分さ! その後、彼女は耳元で『愛は秘め事《リーベ・イスト・アイン・ゲハイムニス》』を歌ってくれるようになった。愛は秘め事。まったくその通りだよ。彼女はトランペット奏者のディック・ツィーゲルと付き合ってるなんて俺に一言も言ってなかったからね」
 ブリオッシュをオーブンに入れ、ジャックはステーキ用の牛肉を叩き始めた。慎重にマレットの支点を手の甲と均衡にし、泡立てと同じリズムで肉を叩く。マレットが跳ね返る。スピードが高まる一方、凄まじいパワーとコントロールは衰えぬまま。締めはアンダンテで、肉の繊維を叩き終えた。
「ディックは嫉妬深いやつでね。よく酒やヘロインでハイになってたよ。やつは銃を手に俺を探してやがった。銃撃戦になって何人かが傷を負った。モントマルトルだとはいえ、もし黒人が銃をぶっ放してみろ。ぼこぼこにされるに決まってる。だから俺は逃げた。そしてここワシントンに来たってわけさ。」
 次はコンカッセに使う野菜の下ごしらえ。包丁を両手に、大まかに切り刻む。連符をアレグリッシモに、五対四のポリリズム。仕上げに、ジャックは奥の流し台に向かって二本の包丁をぽいと放り投げた。それはウォッシュボードにぶつかり、ファンファーレのような音を鳴らした。
「昨日、俺はフランス時代に仲の良かったクロードに会った。ディックとグレタがワシントンに来てるらしい。グレタは映画に出演するため、ディックはドイツ系アメリカ人協会を通じてファシズムプロパガンダを広めるためにだ。ただクロードの話では、ディックは俺がこの街にいるのを知っていて、仕返しを目論んでるらしい」
 彼がそう話した時、レストランのドアが開いた。ディナー客が来るには早すぎる。給仕長も最初のお客まであと一時間はあるだろうと考えていた。リリアンは店内の様子を見に行き、ジャックは配膳口からそれをじっとうかがった。そこにはヒトラー風の髭に、ポマードできっちりと髪を横に分けた、小柄な金髪男性が立っていた。ディックだ。テーブルにトランペットケースを置いた後、ディックは顔を上げ、ジャックが配膳口からこちらを見ている姿を確認した。
「ついさっきボルチモアから何が届いたかを教えてやろう、ジャック」。ディックはトランペットケースを開け、ドイツ製拳銃ルガーを取り出した。「俺様、そしてこの拳銃だ《イッヒ・ウント・ディス・ピストル》。俺のヒルデを朝飯のオランジェみたいに搾りとって、ただで済むと思っていたわけではあるまい、ジャック。貴様をシュウェンカーみたいに吊るしてやろうか」
 隠れる場所はない。非常口は先週不法侵入があったため鍵がかけられている。鍵を持っているのは給仕長だけだ。ジャックは近くにある武器を掴んだ。リリアンが洗っていた山積みの麺棒だ。ディックが離れた距離で無駄に弾を使っている間に、何とかするしかない。「確かに俺はあんたの奥さんと関係があった。俺たちは何時間もじっくりと愛を育んだよ。やさしく、コトコトと煮込むようにね。ああ、俺は本当に美味しいソテーをヒルデといただいた。“ソテー”の意味は知ってるかい、ディック? “跳ぶ”って意味だよ」
 ジャックが浴びせかけた言葉にディックは憤慨した。彼はコンポートした桃みたいに真っ赤な顔で、銃を持つ手を上げた。左側から一発目をぶちこむ直前に、リリアンはテーブルの下にかがみこんだ。ジャックは右側から麺棒を投げて反撃する。左から、さらに二発の銃弾。右からは麺棒。皿に当たりとんでもない大きな音が鳴った。ディックはもう一発、左から弾を撃ち込んだ。ジャックも負けずにやり返す。右から麺棒を連投し、一本はルガー拳銃を床に叩き落とし、もう一本はディックの突き刺すような青い両目の間に命中した。彼は一瞬意識を失い、後ろにのびた。
 ジャックはその瞬間を見逃さず、店の中を突っ走る。ドアを開けている暇はない。彼はジャンプし、正面のガラス窓に飛び込んだ。着地は成功、幸運にもこの脱出による怪我はなし、ジャックの逃亡劇の始まりだ。
「歌い続けるんだよ、素晴らしい自由の歌を。リリアン」ジャックは叫んだ。
「手紙をちょうだいね、ジャック」リリアンは叫び返した。ジャックが消えていった暗がりに向かって。


[死の黒ツバメを追悼して(もちろん他の方々も)――安らかに眠りたまえ]


【訳者解説】
 久しぶりにジャズネタをたくさん織り込んだ短編です。昔のジャズミュージシャンらにささげた作品。ドラムの技法で料理をするという超絶技巧。麺棒対拳銃の対決は漫画的というか、香港映画的というか、スラップスティックですね。
 ハッシュスリンガーズさんは音楽好き(特にジャズ)らしく、ドラムの技法についても詳しいようです(ツイッターのプロフィールにも、一時期、ドラム練習中と書いてあった気がする)。ここで言及されている叩き方については下に少し注釈を添えましたが、ユーチューブなどでドラム練習法みたいな動画がたくさん見つかるので、ご興味のある方はそちらをご覧ください。
 その他、いくつか注釈を。
・マリアン・アンダーソン(1897-1993)。アフリカ系アメリカ人歌手。1939年に肌の色を理由にコンサートを拒否される事件が起きるが、エレノア・ルーズベルトが急遽リンカーン記念館の階段からコンサートを行うことが出来るよう手配し、1939年4月10日にアメリカ全土から7万人もの人が押し寄せた(http://youtu.be/mAONYTMf2pk)。ここで歌ったのは『My Country, 'Tis of Thee』でアメリカ合衆国の愛国歌の一つ。リリアンが短編の中で歌っているのはこの曲の三番の歌詞の一部。二日前に聞いたとあるので、1939年4月12日のワシントンが短編の舞台と思われる。
 ちなみに、マリアン・アンダーソンのリンカーン記念館コンサートと言えば、リチャード・パワーズ『我らが歌う時』の最初の方で重要な事件としてこの歴史的出来事が描かれています。ついでに(我田引水ですが)、デイヴィッド・マークソンの『これは小説ではない』には、ワシントンDCにあるDARコンスティテューションホールという施設が黒人であるマリアン・アンダーソンのコンサートの開催を許可しなかったときに「当施設では、今後もずっとマリアン・アンダーソンのコンサートが開催可能な日程はございません」という通知を送ってきたという事実が記されています。
・ソンムの戦い。第一次世界大戦最大の会戦。北フランスソンム川流域で行われた。
・シドニー・ベシェ(1897-1959)。ニューオーリンズ出身のジャズミュージシャン。クラリネット、ソプラノ・サックス奏者。ベシェの演奏する「レゾニョン(=玉ねぎ)」(https://www.youtube.com/watch?v=hNIBkE1ekF8&feature=kp)という曲がユーチューブで聞けます。レストランの名前はここから来てるみたい。
・ジャンゴ・ラインハルト(1910-1953)。ベルギー出身のジャズミュージシャン。ギタリスト。
・ルイ・ミシェル(1885-1957)。アメリカのジャズドラマー。
・ジョセフィン・ベーカー(1906-1975)。セントルイス出身のジャズシンガー、女優。黒いヴィーナス。
・ダブルストローク。スティックを一回振り下ろして打面を二回打つ、"ふたつ打ち"というドラムの叩き方。RRLL。
・ドラッグタップ。左右交互となる二つの音符からなり、最初の音符にドラッグの装飾音がつき、二番目の音符にはアクセントがある。LLRLRRLR。http://www.momoska.com/single-drag-tap.html
・マルチプルバウンスロール。左右交互に、任意の回数バウンドさせてドラムを打つパターンで、「バズロール」とも呼ばれる。均等で連続した音を出さなくてはならない。http://www.momoska.com/multiple-bounce-roll.html
・「ヒルデ」という名はヒルデ・ヒルデブラント(1897-1976)のことか? ドイツの女優。あるいは、とあるゲームの登場人物にも似た名があるようですが……。
・「グレタ」はグレタ・ガルボ(1905-1990)のことか? 言わずと知れた、スウェーデン生まれのハリウッド女優。1935年『アンナ・カレーニナ』と1936年『椿姫』でニューヨーク映画批評家協会賞、主演女優賞を受賞。3度アカデミー主演女優賞にノミネートされている。
・シュウェンカー。ドイツ、ザールランドでバーベキューの際に使われる道具。グリルを上から吊って、肉などに均等に火が行き渡らせるため、ブランコの様に揺らして使う。
・「死の黒ツバメ」というのは、ユージーン・ジャック・ブラード(1895-1961)の異名。史上初のアフリカ系アメリカ人戦闘機パイロット。第一次世界大戦でフランスのラファイエット飛行隊に所属。パリでジャズの演奏をした時期もある。この短編に登場するジャックは、この人を下敷きにして造形されているようですが、あくまでも下敷きにしているだけですので、誤解なさいませんよう。

(了)

2014年5月23日金曜日

図書館で調べ物



図書館で調べ物
(http://www.hashslingrz.com/go-check-library)

ハッシュスリンガーズ著 于淼・木原善彦訳

 フィリス・コーマックがバスから降りると同時に、エアブレーキのバルブが解放され、いきなり耳障りな音が鳴った。びっくりして、ぐっと飲んだコーラは鼻に入ってしまい、まるで針が頭をちくちく刺すように泡が破裂した。彼女はむせてチェリーゼロを道に噴き出した。頭がすっきりしないうちに、突然パトカーがバスの隣を勢いよく通り過ぎ、サイレンがかなり近い距離で悲鳴を上げ、彼女は反射的に身を屈めた。まるで歩道に下りてきた低空飛行のジェット機を避けるみたいに。
 フィリスは宿題と同じぐらい、街中が嫌いだった。それはつまり、土曜の朝の家事――部屋の掃除をしたり、さらにひどい場合は猫の皿を洗ったり――よりも嫌いということだ。生物の宿題はいつも同じパターン。高校の教科書には何も役立つ情報が載っていないような漠然としたトピックについてエッセイを書けというものだ。ただし、今回に限っては彼女が悪い。トピックを選んだのは彼女自身だったから。
 大学キャンパスの図書館に行って助けてもらいなさい、と提案したのは母だった。フィリスは騒がしい学生たちの間を縫って、図書館へと向かった。建物の外観はただの巨大なガラスのドームで、図書館のようには見えない。彼女が中に入ると、通りの騒音が急に止み、聴覚域の急激なシフトが起きて、次第にキーボードを打つかちっという音や、木に似せた樹脂製の床タイルを踏む靴の踵の音が聞こえるようになった。
 学生たちはフィリスより年上だった。彼女には、学生たちが新入生なのか上級生なのかを見分けることはできなかったが、皆、すましていて、自信満々に見えた。それで彼女は萎縮した。いつか入ろうと願う大学のこの第一印象から、彼女は大学に拒絶されることしか想像できなかった――だって私はニキビが多すぎるし、履いている靴が間違っているし、ふさわしい音楽を聴いていないから。
 彼女はそんなネガティブな考えを脇によけ、やるべきことに集中した――どうしてクジラが浜辺に座礁するのかについての情報を集めなければならない。本棚は一つも見当たらず、長いデスクの列とコンピュータ端末があるだけだ。本だって一冊も見当たらない。ここは本当に図書館? それとも机と学生を栽培する温室? 彼女は部屋の真ん中にある司書のカウンターと思しき場所へと向かった。
 名札にミス・オードントシーティと書いてある、眼鏡をかけた小柄な老婦人がカウンターに立っていた。灰色のきつすぎる洋服から腕と腰回りの贅肉がはみ出し、動くたびにナイロン製の下着とこすれていた。セイウチのように首回りの脂肪が揺らいで、ボヨンボヨンと音を立てていた。
 「すみません。海洋環境とクジラに関する宿題が出たので、多分ここに……あの、本とか何か役に立ちそうな資料があるかと思って……」
 彼女は眼鏡越しに見つめながら、「あなたはここの学生?」と鼻を鳴らして言った。
 「ええと、違います……。でも、貸し出しは必要はないんです。ノートとペンを持ってるので。棚に並んでいる本を見たかったんです。ただ、本棚が見当たらないので。ここは本当に図書館ですか? 外の壁には大きく図書館と書いていましたけど」
 「いいですか、お嬢さん。あなたがいるすぐ下に数百万冊の本、雑誌、会議の議事録が置いてあるんです。地下は六階あって、棚は全て合わせると五十フィートの高さになります。本を下から持ってくるためには、自動倉庫システムを使うの。自律型無人潜水機のように、見えないロボットたちが走り回っています。でも、ここはラテを飲みながら悠々と拾い読みするような本屋とは違う。まず検索のためのキーワードが必要です。あなたの宿題は何?」
 「どうしてクジラが浜に打ち上げられるのかを調べなければいけないんです。私はケープコッドにバカンスに行ったとき、打ち上げられたクジラを一頭見ました。それからカナリア諸島に打ち上げられたたくさんのアカボウクジラの記事を読んで、マダガスカルの二百頭のカズハゴンドウ、オレゴン州のマッコウクジラ、あとはフロリダの……」
 「分かったわ、お嬢さん。私はこれまでいくつか、そういうことに関連した団体で働いてきました。簡単には答えられない質問もあります。さっき言ったように、私たちはここで何百万もの出版物を取り扱っていますが、あなたの足下の文献はホワイトな文献で、索引がつけられていて検索が可能です。しかし、このような文献は世間に害のない事実しか含んでいない。つまり、彼らが世間に見せたいと思っている情報ということ。あなたはもっと深い場所に埋められている事実をお探しですね。よく聞いて。あなたにはただでこれを教えてあげましょう。エイハブ船長はピークォド号とともに深く静かな海に沈みました。ところが今、海は耳障りな音に侵されています。モビー・ディックは日々、海の中を伝わってくる音によって攻撃を受けているのです。ヘリコプターや飛行機がソナーを落としたり、駆逐艦がソナーを引っ張ったり。石油やガスの測量船が海底に向けてギャーギャーと音を出したり。岩床に固定された風力発電の鉄塔からもビュッビュッビュッと音が出るし、巨大タンカーの周りにできた空洞水流からディーゼルエンジンのピストンの音がドシンドシンと響いたり。権力を持った利害関係者たちは環境へのダメージをホワイトな文献から隠すためにできる限りのことをしているのです」
 女は話しながら段々と身を乗り出してきて、近くの空港で離陸するジャンボジェットの轟音の中でも聞こえるよう、徐々に声を上げた。異常に低く飛んでいるため、ジェット機のエンジン音がフィリスの胸の中で轟いた。
 「でもねお嬢さん、あなたがしたような質問の答えは、たまに別のどこかに漏れ出ているものですよ。普通の出版物から獲得できない情報の中、つまり目録や索引付けがされていない書物なんかにね。つまりグレーの文献というものです。技術草案報告書、科学研究グループのノート、調査報告書から非公式なメモ、日記、船員からの手紙、これらの書物は政府や米国国防総省、産業界から支配されていないのです。そのようなグレーの文献を探したらもっと真実に近づけます。一歩手前まではね。でも、もしあなたが真相を知りたいならば、さらにもっと深いところへ飛び込まなければなりません。ブラックな文献――ロシア人が“地下出版物”と呼んでいたような文献――にまで分け入らないとね。そこまで行けば、彼らが隠したがっている危険な事実が見つかります。機密情報は厳重に守られているから、書き写したものを持っているのが見つかったりしたら命に関わりますよ」。フィリスのすぐ耳元でミス•オードントシーティさんは囁いていた。あのジェット機はもう過ぎ去っていた。
 「本当に、恐ろしい話ですね……。私はただ宿題をしたいだけだったのに……。あの、もういいです。帰っておじいちゃんに聞くことにします」。フィリスはめまいがし、吐き気に襲われた。
 フィリスのすぐ後ろで、小ドラムと大ドラムのクラッシュの音、ギターのリフがマシンガンのように聞こえた。騒音に混じって“畏怖の海”と“CIA”という歌詞の断片が聞こえた。振り返ると、すぐそこにレディオヘッドのTシャツを着ている学生が立ちはだかっていた。首に巻いたヘッドフォンから音楽がほとばしってくる。耳がおかしくなる音量だ。びっくりした彼女は立ち止まり、その学生の顔をじっと見つめた。
 「ベイビーは|潜水病《ベンズ》」。彼はゆっくりと言った――あたかもその歌詞に何かの意味があるかのように。フィリスは逃げ出した。

【訳者解説】
 らしい短編。
 「鯨はなぜ(自ら)浜辺に打ち上げられるのか?」というのはかなり前からある謎で、ウィキペディアの「座礁鯨」の項目にある通り、決定的な答えが見つかっていません。潜水艦の発するソナー音が原因だという人もいて、米国海軍がそのような事例を認めたこともあります。やや陰謀論的な見方に従えば、そういうケースの多くは有力者によって隠されていて、普通のメディアは報じないけれども……という話になっていますから、グレーの文献を見なければ真実には近づけない。
 ちなみに、よく知りませんでしたが、「グレーの文献」「灰色文献」というのは実際に図書館に収蔵することが検討され始めているようですね。一見、この短編にあるような怪しげなものではなさそうですが、確かに面白そうな領域です。
 短編の結末で、レディオヘッドの歌「ベンズ」が登場します。歌詞の意味は漠然としています。とりあえず、「ベイビーは潜水病」というのが作品の締めくくりとなっていて、主人公の女の子が“ディープ”な情報に触れてめまいと吐き気を覚えているのが「潜水病みたい」という落ちになってます(たぶん)。潜水病は「減圧症」とも言い、「身体の組織や体液に溶けていた気体が、環境圧の低下により体内で気化して気泡を発生し、血管を閉塞して発生する障害の事」。なので、冒頭でチェリーコークがプシュッとなるのも前振り。また、(特にダイビング後の)飛行機での減圧などが引き金になることもあるそうですし、「ベンズ」の歌詞にも飛行機が出てくるので、結構、細かいネタ同士が絡み合っています。
 ミス・オードントシーティ(Odontoceti)は妙な名前です。あまり英語っぽい綴りには見えませんが、英語で「歯鯨」のこと。『白鯨』うんぬんについては説明を省略……。
 ハッシュスリンガーズさんの短編は、楽しみ方がいろいろあると思いますが、私自身は「ここって机と学生を栽培する温室?」みたいなちょっとしたお遊びもかなり好きです。

(了)

2014年5月16日金曜日

マフィヤ



マフィヤ
(http://www.hashslingrz.com/muffya-0)

V.D.著 安保夏絵・木原善彦訳

 レイ・スナーロウは東アトランティスモールの駐車場に入り、『生きて、働いて、そして遊ぶ!』と書かれた看板の下に車を停めた。
 「遊ぶなんて、いつの話になるのかしら…」と彼女はぼそっと呟いた。「シフトマネージャーになるまでは無理。この町は家賃が超高いから」。まるでモノクロの虹のように並んだ動かない車の横をすり抜けながら、彼女は今日も平和に終わるようにと祈った。
 そのショッピングモールの前世は工場で、テナントに入っている“ホットトピック”の真上の位置に給水塔が残されたままである。建築途上のトローリースクエアといった風情。最年長の警備員、ハルによれば、その給水管は大昔からあるらしい。わしも同じくらい昔からここにおるけどな、というのが彼の口癖だ。レイはよく十五分の休憩中に、ハルと話をした。彼女は雨や風を気にせず、非常階段の下でこっそり、ナットシャーマンのピンクの煙草を吸った。目立たないように吸ってはいても、やはり気になった。ピンクの煙草はあまりにも目立つ。そうでなくとも、誰かに気付かれるかもしれないけれど……。
 永遠の若者向けに手を抜いて作られた服を販売する『フライイング・アウル』で、レイの勤務はごくごく普通に始まった。彼女は、従業員の行動のうち数量化できるものすべてを会社の奥の奥にある中央基地に報告する機械に、自分の社員番号を打ち込んだ。勤務が始まると一通り、数字のチェック。昨年同日の売り上げ、その+8%という本日の売上目標。今週の販売促進製品の確認。それが終わると、彼女は店の入り口に立ち、挨拶をした。

 こんにちは。
 ハーイ。
 今、お客様がご覧になられているシャツのお色違いで黒いのが、奥にございます。どうぞお立ち寄り下さいませ。
 本日イヤリング全品、なんと2つで15ドル。
 素敵なシューズですね。どちらでお買いになりました?
 こんにちは。
 ハーイ。

 これが十五分休憩まで続く……。
 ハルは今日、非常階段の下に居なかった。代わりにアリアナがいた。彼女は“レイシー・ステイシー”のシフトマネージャーで、上品にカプチーノをすすっていた。レイは彼女を嫌いたかったが、そんなことはできないと自分でも分かっていた。レイは時々、“レイシー・ステイシー”の店を訪れた――これはずるをしているわけじゃなくて、ライバル店の様子をチェックしているだけ、と自分に言い聞かせながら。カウンターの向こうにいるアリアナは人造宝石をまとい、艶のあるブロンドヘアーが金の液体となって顔を縁取っているように見えた。手はまるでピアノで協奏曲を奏でているかのように抵抗なく滑らかに動き、靴下やシャツの金額をレジに打ち込んでいるようには見えなかった。要するにお店にいる時のアリアナはいささか美しすぎるのである。 しかし、今この瞬間の彼女は眉間にシワを寄せていた。
 「どうしたの?」とレイは尋ねた。
 「ハルからあなたがよくここに来ると聞いて」と彼女は言った。
 「私を探していたの? どうして?」
 「ここはなんかおかしい」とアリアナは言った。
 「おかしい?」
 「そうよ。その通り。」
 レイはぽかんとしながら彼女を見つめて言った。「ん?」
 「あなたは何かおかしいと思ったことは一度もないの? 怪しいことが行われてるって。密かに」
 「ない」とレイは言った。
 「このショッピングモールはよそと違う」とアリアナが続けて言った。
 「よして」とレイが遮った。「以前、そういう妄想の話を一度だけ聞いたことがあるわ。モールの従業員としてのプライドが原因。従業員が休暇を取らない時にかかるビョーキみたいなもの。DSM(精神障害診断マニュアル)にも載ってる。調べてみて」。いくら美人でもパラノイアは勘弁してほしい、とレイは思った。
 「あなたは分かっていないんだわ。あいつのオフィスがここにあるの。例の建築家。もし行けるものならそこに行って、昇進させてもらえるように頼もうかと思うんだけど。まあ、見てて」
 しかし、レイはアリアナが本当は何を言いたいのかを確かめる時間がなかった。休憩時間が終わった。「えーと、それじゃまたね」
 レイが多すぎるコーヒーを飲み、カンパオチキンを食べている間に、一日の残りが過ぎた。
 その日の晩、レイは再びパウェイの夢を見た。暗闇から現れたのは砂漠州でも、|死者の国《サイバラ》でもなく、(少なくとも彼女にとっては)どこでもない世界だった。そこにはレイの妹、ジェニファーがいて、トイレのドアを開けたまま灯りを消して便座に座り、電話の相手にぶつぶつと言っていた。「奥様、そのご注文は承りかねます」
 会話が途切れたところでレイが言った。「ここから出て、喫茶店にでも行きましょう。グルテン抜きのクロワッサンか何かを食べない? 私は失業中で、あなたは働いている。でも、別に二十ドルくらいなら私にでも払えるわ」
 ジェニファーは初め、何の反応も見せなかったのだが、結局は折れた。「そうね。ちょっと考えさせてちょうだい。食べるなら最高のものじゃなくちゃ。姉さんも知ってると思うけど、シナモンと大麻仕立てのスフレとか、山羊乳チーズで作ったファッジにベリーソースをかけたのが私は好きなのよ」
 レイは車があるかどうか確認しにガレージへ行こうと階段を降りる途中で母親に引き留められた。
 「おばあちゃんがチョコレートを送ってくれたわ」と彼女は言った。「一緒に食べましょう」。チョコレートはゴルフボールくらいの大きさで、茶色い粉砂糖がまぶしてあった。箱がたわんでいた。チョコは三列。その様子はオペラの客席を思わせた。
 「ダイエット中だからどうかな」とレイは言った。
 「え、ダイエットよりもこっちの方がいいわよ! 飲み込んだ後、十分か十五分したらまた吐き出せばいい。そしたら妖精が現れるのよ」
 実際にやってみようと、レイは二階に箱を持っていき、一粒だけチョコレートを食べた。頭の中が妄想でいっぱいになった。「さあ、どうしよう」。まずは妖精にダンスを教えよう。決まり切ったパターンで振りを揃えるのがいい。きっと、YouTubeで注目を集める。なんとかダンスをこなし、腕を振って少しだけ脚を動かしていると、レイはザ・ルミニアーズが『Ho Hey』を歌う野外コンサートに移動していた。適当に集まった二十人ほどの客とレイだけのために催されたコンサートだ。その後、野外でQ&Aコーナーが始まったが、内気なレイは何も質問することができなかった。その次にはポメラード通りから少し入ったツインピークス通りを歩いた。町に義務づけられた景観用の緑、木々の間を走る真っ赤な血管。それはまるで、メッセージを運んでいるかのように脈打っていた。そして低木。コンクリートの道が蛇のようにくねくねと続く。レイはもう一度メリンダを探さなければならないと思った……と、そこで夢が終わった。
 次の朝、再びショッピングモールの更衣室で着替えを終えた彼女は、働き始める前に心を決めた。「今日の休憩時間はメープルシロップを休憩中に食べよう。アリアナもきっと欲しがるわ」

【訳者解説】
 今回の短編はいつもの著者ではなく、V.D.さんがハッシュスリンガーズのサイトに投稿したものです。
 なので、いつもと雰囲気が違う。というか、(続けて読んでくださっている方々には申し訳ないのですが)どうにもよく分からないところがあって、翻訳としても微妙な仕上がりになってしまっている気がします。担当の学生(共訳者)もかなり苦労したようですが、私もちょっともやもやが残っています。
 作中、アリアナさんが、いつも変わらぬモール勤めで妄想を抱き始めている(あるいは、本当にこのモールには裏があるのかもしれない)というところまでは『ロット49』みたいな陰謀/妄想ネタだからよく分かるのですが、帰宅した後に見る夢が私にはちんぷんかんぷんです(夢だから当たり前、と腹をくくる手もありますけど)。で、翌朝の「今日の休憩時間はメープルシロップを食べよう」という決意に、夢がどうつながるかも不明。
 ともあれ、こういう味わいの短編があってもいいと思ったので、やっぱりここに掲載することにしました。どなたか、解釈のお知恵があれば、ツイッター(@shambhalian)でお知らせくださると幸いに存じます。
 なお、次のようなものはすぱっと分かったアイテムたちです。
・タイトルの「マフィヤ(Muffya)」はマフィア(Mafia)の異綴として『ブリーディング・エッジ』に出てきます。すけべな駄洒落になっていますが、教育上の理由で省略(答えはこちらをご覧ください)。
ホットトピックというお店は、音楽・ポップカルチャー関連の服やアクセサリーを売る大手のチェーン店。
トローリースクエアというのは、ユタ州ソルトレークシティーにある流行のモールで、天気予報塔と呼ばれている塔が目印みたいですが、ちょうど物語の舞台のモールの給水塔に似ています。
・ナットシャーマンのピンク色の煙草はこんなのです。派手。でも格好いいような・・・。
・グルテンフリー。「ハリウッドセレブに人気のグルテンフリーとは」という記事などをご覧ください。健康志向の一部アメリカ文化は、次々に「○○フリー」を生み出しますね。
・ザ・ルミニアーズは実在します。2012年にデビューしたコロラド州出身のフォークロックバンド。なんと、初来日ツアーも行われるらしい。
パウェイという町はカリフォルニア州に実在します。原文ではパグウェイ(Paguay)となっていますが、これは先住民の地名をスペイン風にした古名。ツインピークス通り、ポメラ-ド通りはどちらもパウェイにあります。ツインピークスという地名はあの『ツインピークス』を思い起こさせます。
砂漠州は一八四九年にモルモン教徒が州として組織したユタ、アリゾナ、ネヴァダを主とした地域。連邦議会はこれを拒否し、一八五〇年にユタ準州ができました。『ブリーディング・エッジ』には“砂漠州《デザレット》”という名の謎めいた超高級マンションが出てきます。
もしも砂漠州が存在していればパウェイは州の南西角に位置し、トローリースクエアは州の中心付近に来る。ここに意味があるのか、ないのか、不明。
・死者の国《シバルバ》と訳したのは、マヤ神話に伝えられる死者の国のことです。原文は綴りが違うのですが、でもたぶん、これのこと。
DSMは最近、マスコミなどで取り上げられることもあるので広く知られるようになりましたが、アメリカで心の病気の診断に用いられているマニュアルです。しばしば改訂されていますが、そのたびに、「何が病気で、何が正常か」という基準が変わっているのが興味深い。同性愛やPTSDみたいなものがここでどう扱われてきたか、というのが研究題目になったりもします。

(了)

2014年5月10日土曜日

地上の世界






地上の世界
(http://www.hashslingrz.com/surface-world)
ハッシュスリンガーズ著 森谷卓也・木原善彦訳

 カリーニングラード州のような空間的に特異な地域に対し、地図製作者は特別な親近感を抱く。戦間期、ポーランドとリトアニアとに囲まれたその地域は、東プロイセンとしてドイツの飛び地となっていた。第二次世界大戦時にソヴィエト連邦に併合されたが、ソ連崩壊後、再びそこは飛び地となった――今回はロシアの飛び地だ。おかげで地図製作者は歴史上ずっと、バルト諸国の地図を描く際、同じ国は同じ色で塗り、隣接する別の国は配色を変えるという方針を貫いた場合、色が最低何色必要になるかについて頭を悩ませてきた。皮肉にも、カリーニングラードの土地的な隔たりにもかかわらず、このバルト海岸の小さな領土を支配しようとするロシアの衝動は、連結性と連続性の問題が原動力となっていた。というのも、カリーニングラードには、おそらくこの世で最も危険なカルト集団、“ドイツ位相幾何学者騎士団”がいるからだ。
 団体の起源は慎ましいもので、十九世紀半ばにさかのぼる。ケーニヒスベルク 大学の数学部に入学しようとしている学生たちは、いくつかの一見解決不能な試験問題を与えられた。たとえば、「大学を出発し、街の7本の橋をそれぞれ必ず一度、かつ一度だけ通って、大学に戻ってくるルートを見つけよ 」という問題だ。十八世紀ドイツ版のコバヤシマルとも言える、この表面上は決してうまくいかないシナリオは、見込みある志願者が不可能に直面したとき、どう乗り切るかを判断するためのものだった。レオンハルト・オイラー の理論に精通している有能な学生は、頂点とそれに伴う辺を数えあげ、問題が解決不可能であるという数学的根拠を明確に述べた。試験に落ちた一人の学生は試験の後でとんでもない解決に訴えようとした――橋を一本爆破しようとしたのだ。
 数学部の入試に合格した者の多くは間もなく、“麦酒同好会《ビエトリンカー・ブルダーシャフト》”に加わった。同好会は正式には、ドイツ位相幾何学者騎士団と呼ばれていた。イマヌエル・カントの教えを奉ずるこの哲学的な一派は、「自分自身の悟性を使う勇気を持て」という言葉をモットーとしていた。試験に落ちた学生がダイナマイトを使って問題を解こうとしたという伝説もまた、不可能を可能にするのに近い、啓発的な考えの英雄的なモデルとして、団体のフォークロアに組み込まれた。
 時が経つにつれて、この陽気な一団は変わっていった。数学も進歩した。表と裏が無限につながったメビウスの帯、集合論のカントール、分離空間を定義するフェリックス・ハウスドルフ の公理。そうした中で、ケーニヒスベルクに関する位相幾何学者のジョークは歴史に埋もれていった。数学は無限の彼方に存在する完成に向けて際限なく突き進むかのように、絶えず進歩し、発展し、洗練されているかのようだった。
 取り巻く世界も変わったが、いい方向に向かったわけではなかった。戦争、ワイマール共和国でのハイパーインフレ、繰り返される金融危機。マルクス主義、全体主義、共産主義など、次々に破滅的な“主義”が流行したが、互いに矛盾するそれらのイデオロギーでは、問題の解決はできなかった。そうした“主義”が信用ならぬ過去へと消え去った後を、“新○○”が受け継いだ。新自由主義は世界規模の究極の富をあおり、新マルクス主義は偉そうに後期資本主義を語り、新ケインズ学派は財政刺激で民衆をペテンにかけた。変わったものは何もなかった。“新○○”は結局のところ、ただの看板の掛け替えにすぎなかった。現実世界の人類は、進歩や出口のない無限のループに閉じ込められ、進歩のアンチテーゼは数学においてのみ実現された。
 ソヴィエトによる侵略の後、位相幾何学者団体は秘密主義をいっそう徹底するようになり、世界を繰り返される過ちのサイクルから開放するために数学の知識を使うことを誓う抵抗勢力《レジスタンス》となった。そしてプロイセンの騎士によって建造された十二世紀の砦の遺跡である、カリーニングラードの地下に隠された広大な通路や地下トンネルに身を潜めた。使いやすさばかりを考えた、参議院議事堂の強化コンクリート製建物の下での新たな生活。地上の巨大な建物は再建されたソヴィエト風の都市景観の中で、まるで大きな箱型のロボットが捨てられているかのように見えた。彼らは今、位相幾何学の符号に詳しい者だけが理解できる幾何学的暗号が記された地下世界の通路に住んでいた。そしてナチスの地下掩蔽壕への階段、地上との行き来のために備えつけられた抜け穴である下水道の出入り口、秘密組織の存在を維持するために三次元的に相互に連結されたトンネルを複雑なオイラー的回路がつなげていた。
 団体の入団試験は、選り抜きの同志を選ぶ慎重な儀式となった。志願者は胴着のみを身につけ、両手を縛られ目隠しされた。そのままの状態で胴着を裏返し、裏表で着ることのできた者が、団体の一員となった。この入会儀式が表しているのは、外部を内部にマッピングする関数を見つけた志願者こそが位相幾何学の世界において真に価値ある者であるということであった。
 所詮は悪意のない位相幾何学の手品じみたトリックだ。そんなものは破壊的な集団の印でない。あなたはそう考えるかもしれない。しかしながら、位相幾何学者は、長い間、ある単純な事実を知っていた。丸い球から生えている毛をむらなく梳かすことは不可能だ、という事実を。球の表面上で連続する接ベクトルを取り、それに沿って平らに毛を梳かしてみるといい。ベクトルすべての起点、それらすべてが収束する点が常に生じるだろう。位相幾何学者にとって、地球はまさに球であり、磁力や風、潮流がベクトル場だ。風が吹いていない地点、それ以上は北に行けない地点、潮流がない地点、そうした特異点が必ずある。しかしながら、どこかでは常に風が吹いている、だから数学上は、地球上のどこかでいつもサイクロンが渦巻き、風のない中心点、特異点が必ず存在することになる。
 あるとき、街の地下深くで、コーヒーを飲みながら、あるいはベーグルをつまみながら、団体の重大な会議が開かれた。位相幾何学者の一人が、ベーグルを持ち上げ(もしかするとコーヒーカップだったかもしれないが、位相幾何学的には相似なので両者の違いは重要ではない――トーラスでありさえすればいい)、世界の経済的災難に対する幾何学的解決法の結論を下した。金銭もまた地表を漂うベクトル場にすぎないと彼は断じた。世界の金融システムにおける根本的問題は明らかだ。人類はプラトン立体上に存在している。だから、地上で金銭をスムーズに流通させようとするとどうしても、金が無法な掃き溜めに消えたり、各国の政府銀行が常に紙幣を印刷することが必要になったりする。新マルクス主義は間違いである。資本主義は後期の段階に達したのではなく、絶えず渦に飲み込まれているのだ。地球上のベクトル場内部のこれらの財政上の特異性の必然的結果は明らかだ。金銭供給の逸脱的な変動、渦を巻き激動する負債、にわか景気と不景気、金融上の急暴落、無秩序と悲惨な人々。この難問に対して、唯一の正しい数学的な解決策が存在するかもしれない。世界が位相幾何学的にバランスをとらない限り、金融政策は決して安定しないだろう。そしてドイツ位相幾何学者騎士団は、どうすればそれが実現できるのかを理解した。「われわれは自分自身の悟性を使う勇気を持ち、地球にでっかい穴を開けなければならない」と。
 そう。みなさん、ロシア人がドイツ位相幾何学者騎士団が地上に戻ってくる日を恐れているのは、だから、当然のことなのだ。
 

【訳者解説】
 これまた理系風味(今回は特に幾何学、位相幾何学)がかなりきいた、私好みの短編です。仕掛けが分かるとすごく楽しい。地球にでっかい穴を開けて地球上のベクトルの流れを一気に変え、経済の問題を解決するという飛躍も大胆かつウェルメイド。ピンチョン風超短編ハッシュスリンガーズらしい作品です。

 冒頭はいわゆる「四色問題」あるいは「四色定理」を踏まえています。四色定理とは、いかなる地図も、隣接する領域を違う色に塗り分けるには四色で足りる(やや意外に思えるかもしれませんが)という定理。ただし、ここで厄介なのは「飛び地」の問題です。(本国から離れて他国領地内にある)飛び地は本国と同じ色でなくてもよいのなら四色で足りるのですが、飛び地をちゃんと本国と同じ色にしなければならないという条件が付くと、必要な色の数はいくらでも増えてしまいます。だから、この短編中で地図制作者が頭を悩ませているわけです。
 他のややこしそうな語句についても簡単に説明を。
  位相幾何学(トポロジー)。比較的新しい幾何学の分野。トポロジーの名称はギリシャ語のトポスとロゴスの合成に由来するもので、直訳すれば「位置の研究・学問」。wikipediaの該当ページを見ると、ケーニヒスベルクの橋の問題やコーヒーカップとドーナツのことなど、この短編を読むのに鍵になる要素が概観できます。
  ケーニヒスベルクはカリーニングラードの旧称。
 「ケーニヒスベルクの橋の問題」は有名な一筆書きの問題。数学者オイラーは、この問題をグラフに置き換え、グラフが一筆書きできないことを証明し、問題を否定的に解決した。オイラーは数学者であると同時に、物理学者、天文学者でもあった。微積分成立以後の18世紀の数学の中心となって、続く19世紀の厳密化・抽象化時代の礎を築いたとされる。スイスのバーゼルに生まれ、サンクトペテルブルクにて死去した。(1707年4月15日 - 1783年9月18日)
  「コバヤシマル」はアメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズに登場する、シミュレーション課題の1つ。これも「ケーニヒスベルクの橋の問題」と同じく、実は解けない問題というところがミソです。
   カントールは(『逆光』読者にはおなじみですが)ドイツで活躍した数学者。素朴集合論の確立者。(1845年3月3日 - 1918年1月6日)
 ハウスドルフはドイツの数学者。位相空間などの研究に貢献した。(1869年11月8日-1942年1月26日)。
 目隠しをして、両手をくくったままで、胴着(チョッキ、ベスト)を裏返しにする、という位相幾何学的課題が解決可能かどうかは(私の頭では)不明。
 「球に生えている毛を梳かすのは不可能」という部分は分かりにくいかもしれません。丸いボールの全体に毛が生えているのを想像してください。それを人間の髪の毛みたいに、櫛やブラシで梳いて、寝かしつけようとします。すると、全体をきれいに寝かすのは無理で、どうしても頭頂の“ぎり”みたいに「髪の流れの起点」と、その逆に「髪が集まって突っ立ってしまう地点」ができます。それがここで言う「特異点」。これは相手が球だから生じる問題なので、ドーナツみたいに穴を一つ開ければ、全体を平らに寝かすことができます。だから、「地球にでっかい穴を開ける」という(とんでもない!)解決につながる。
 なお、位相幾何学的には、ドーナツみたいな一つ穴の形状を「トーラス」と言います。多くの人は「位相幾何学」という単語を覚えるのと同時に、「位相幾何学的には、ドーナツもコーヒーカップも同相である」という言い方(考え方? ものの見方?)も覚えます。
 プラトン立体というのは正多面体のこと。すべての面が同一の正多角形で構成されてあり、かつすべての頂点において接する面の数が等しい凸多面体。正多面体には正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の五種類がある。

 翻訳も厄介ですが、注も厄介な短編でした。

【追記】
 いろいろ調べているうちに、「位相幾何学者がベーグルを本気で切ってみたらこうなった」みたいな記事が見つかりました。きっとこのジョージ・ハート氏はドイツ位相幾何学者騎士団に属しているに違いない……。

【追追記】
 球をドーナツ型に変えてベクトルの流れを・・・というあたりの話は「ポアンカレ=ホップの定理」として数学的に定式化されている問題だということです。友田とんさん(@tomodaton)情報をありがとうございました。

(了)