2014年7月10日木曜日

未来は永久凍土の上に





未来は永久凍土の上に
(http://www.hashslingrz.com/future-out-there-permafrost)

舞さつき・木原善彦訳

 身を切るような寒さの夜、チェコの兵士ヤーラ・ツィムルマンの小隊はボリシェヴィキ派先遣部隊の闇討ちに遭った。最後の生き残りとなったヤーラは食料もなく、森に逃げ込んだ。よろめきながら木々の間を進み、根っこに足をとられる。星ひとつない暗闇。方向を見失い、完全に迷うまでに時間はかからなかった。ここはどこだ。どこへ向かえばいい。地面に絶えず降り続ける雪片にチラチラと反射するほのかな灰白色の光に彼は気が付いた。夜明けを知らせる光で、雪に覆われた松の枝が姿を現す。太陽は雲にすっぽり覆われ、その姿を見せない。シベリア鉄道の線路まで戻らなくては。ヤーラは自らに刻一刻と迫る死を感じた。延々と続く荒野で迷った彼には、どちらが南でどちらが北なのかわからない。仮に方角がわかったとしても無駄だ。彼は戦闘の真っただ中、無我夢中で逃げてきたので、元いた方向を思い出すことすら困難だった。
 ヤーラが踏みしめるこの凍てつく荒野は、異教徒が暮らすロシア辺境の奥地にある。そこへ至る道は長く、危険だった。彼は故郷のプラハを追いやられ、オーストリア帝国軍に徴兵された。東部戦線ではロシア部隊と戦闘した。捕えられた彼は自ら忠誠を捨て、自由のため戦う裏切りのチェコ軍団に参加し、ウクライナ全域で中央同盟国と戦を交えた。十月革命とレーニンのドイツ講和条約受け入れによって、状況はまた変わった。チェコ軍団はロシアの広大な森と平原を抜け、シベリア鉄道経由でウラジオストクへ赴くこととなった。そこでアメリカの貨物船が彼らを拾い上げ、共にフランスで西部戦線に参加する……はずであった。ボリシェヴィキの裏切りにあったのだ。何千キロも続く鉄のレールに沿って、ウラル山脈から太平洋まで、チェコ軍団は今ではあらゆる街のため戦っていた。
 出口の見えない森でさまよい、方向も定かではない。人っ子一人おらず、辺り一面ただ雪と氷が広がるのみ。ヤーラは忘却が自分を待ち構えているのを感じた。骨の髄まで凍える寒さに耐えきれず、地面に崩れ落ちた。最後の力を振り絞り、何とか起き上がって松の木にもたれかかる。もうこれ以上は動けない。私はこうやって死んでいくのか。故郷から遠く離れた、いや、どこからも離れた場所で。彼は眠りに落ちた。
 ヤーラは、無数の羽飾りと飾り紐をぶらさげた毛皮を着ているモンゴル人の視線に気が付く。男は立派な角を持つ大きな白いトナカイにまたがり、笑顔でも眉をひそめるわけでもなく、ただ一心に――凝視とは違うのだが――こちらを見ている。動物の皮でできた太鼓を片手に、もう片方には先を革で巻いた骨製のばち。男は静かに太鼓を叩き始める。ゆっくりと、一定のリズムで。ヤーラは太鼓の音に合わせて、自分の心臓の鼓動が弱々しく動くのを感じていた。モンゴル人は歌いはじめる。遠くで吹く風のような優しい口笛。木々の間をすり抜けるように、霧がかすかに漂ってくる。奏者は太鼓の音と優しいささやきをそっと減らしてゆく。太鼓の音が聞き取れなくなった頃には、彼は歌うのをやめていた。
 どうしたことか、突然ヤーラは家族と故郷のことを思い出す。送れなかった手紙がコートのポケットに入ったままだ。彼はポケットに手を入れ手紙を取り出す。腕を男の方に差し出し、ここ数か月で覚えたばかりの、つたないロシア語で話しかける。「この手紙を、どうか。妻に宛てたものだ。彼女は遠くにいる。ここで死ぬのなら、これを彼女に届けないと」
 トナカイを前に進めさせ、モンゴル人は腰を曲げて、ヤーラの手から手紙を受け取った。トナカイから降りることはなく、また元の位置に戻る。雪の上でもその足取りはしっかりしている。モンゴル人は手紙を前に構え、慎重に切手をはがす。腰のベルトにつけたポーチから小さな本を取り出し、切手をその間にはさみ、またポーチにしまう。そして手紙をビリビリに引き裂き、空中に舞う雪のようにばらまいた。
「やめろ! 妻への最後の言葉なんだ、それをばらまくなんて!」。ヤーラは男の行動に愕然とした。しかし戦う気力も湧かない。
「何故あなたは死を望む? 未来への選択肢はいくつもあるというのに。夏の太陽が再び照らすのを待ちわびている未来が、雪に覆われた大地の上にある。あなたの精神が何かに気づくまさにそのとき、無限の数の未来がひとつに収束する。いずれかひとつの未来を現在に変えるのは何か? 神の思し召し? あなたがそう望むから? その二つの答えは、同じ現象を違う角度から見ているだけなのか、それとも違うのか? ある日、男が森でトナカイの死骸を見つける。彼が認識する直前、トナカイは生きていたのか、それとも死んでいたのか? ひょっとすると生きていると同時に死んでいたのかもしれない。しかし、そうだとすると、強靭な森の獣が死んだのは男がそう願ったからなのか?」
 ヤーラは、その男が流暢なチェコ語を話すことに驚愕した。口をほとんど動かすことなしに出るその声は、物静かで優しく、悪意も恐怖も感じられない。少し間を置いた後、モンゴル人が続ける。「私の同胞はエヴェンキ族だ。我々は地上の連鎖、魂の均衡の上で暮らしている。あなた方は我々を未開人と思っているだろう。それは違う。あなた方の科学では見えないであろう、あらゆる存在を結ぶトンネルを我々は知っている。私が切手をしまったのは何故だ、切手に神秘の力でもあるのか、とあなたは疑問に思っているだろう。大地の精霊の前ではこんな紙のしるしなど役に立たない、全くの無価値だ。あなた方の郵便システムを見ていると私は笑いたくなる。この切手は全く無駄なものだからこそ、いただいたのだ」
「私の妻は、彼女は、私がどうなったかわかるんでしょうか?」
「あなた方の魂は、飾り紐のように絡み合っている。あなたと彼女の精神の粒子は絡まりあい、絆は時空を超える。絆は時空を必要としない。別離など存在しない。それは魂でなく精神の錯覚だ。死が迫ったときには、あなたの妻の魂はさらに近くまで来ることだろう」
 ヤーラは疲労感から再び倒れこみ、意識を失う。目が覚めると、そこはプラハの通りだ。周りには笑いながら遊ぶ子供たち。彼のそばには妻がいる。そして、記憶にある姿より一回り成長した息子が彼の手を握っている。ヤーラは妻の方に振り向きキスをする。そして目をつむる。
 もう一度目を覚ます。すると、すぐ前の地面で薪の火が燃えている。羊毛製で厚手のオーバーが木の枝にかけられ、たき火の熱で乾かされている。彼はトナカイの毛皮でできた厚く暖かいコートにくるまれている。鍋がぐつぐつと煮えている。ミートシチューの香りがすさまじく飢えた彼の胃袋を起こす。モンゴル人はどこにもいない。ヤーラはシチューを食べ、出発の準備を始める。未来は永久凍土の上にある。今こそ、実現させるときなのだ。

【訳者解説】
 ピンチョン『逆光』にツングースカあたりを探検する挿話がありますが、この短編はそれを意識したものみたいですね。神秘的なシャーマンっぽい男が不思議な世界観を語ります。個人(木原)的には、かなり好みのスタイルと内容です。
 まずは歴史的背景から。第一次世界大戦中、ロシア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国軍のチェコ人及びスロバキア人捕虜からチェコ軍団と呼ばれる軍団級部隊を編成しました。この短編の主人公ヤーラはチェコ軍団の一人。ボリシェヴィキはロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジミール・レーニン率いる左派の一派で、彼らは十月革命後、一九一八年三月三日にブレスト=リトフスク条約と呼ばれる講和条約をドイツと締結します。チェコ軍団はチェコスロバキア独立のために、シベリアを経由してウラジオストクに向かい、アメリカ経由の海路で西部戦線に渡ることが決められましたが、三月半ばに至るまでウクライナにおいて中央同盟国のドイツ軍、オーストリア軍と戦闘を継続せざるを得ませんでした。同年五月二十五日、ウラジオストクに向けて移送中であったチェコ軍団の一部が、ボリシェヴィキの対応に反発し、ウラル山脈南東部の都市チェリャビンスクにて蜂起しました。彼らは八月までにヴォルガ川流域からウラジオストクに至るシベリア鉄道沿線の主要都市を制圧し、ボリシェヴィキに軍事的な圧力をかけました。なお、このページに使われている切手の画像は、一九一七年にチェコ軍団が発行した軍事郵便用の軍事切手のひとつです。
 「エヴェンキ族」はツングース系民族の一つで、主にロシア国内のシベリア連邦管区にあるエヴェンキ自治管区に居住しています(ほかに、ロシア国内ではサハ共和国などにも居住し、中国国内でも興安嶺山脈周辺の内モンゴル自治区・黒竜江省などに居住している)。
 最後に、「ヤーラ・ツィムルマン」という人物について。ヤーラは1853~1859年の間、いやもしくは1864、1868、はたまた1883年に、チェコ人の父、オーストリア人の母のもと、ウィーンに生まれ、様々な偉業を残した、ヤーラ・ツィムルマン劇場の創始者。テレビ局がおこなった「チェコ人が選ぶ最も偉大なチェコ人ランキング」で大多数の票を得た。
彼が行ったとされる偉業の例を挙げると・・・

  • パラグアイに人形劇場を作る
  • ヨーグルト菌を発見
  • サモエドの研究
  • エジソンが電球の製作に取り組んでる際、ソケットのおへそ部分を捧げる
  • ツェッペリン伯爵と共にチェコの帆を使ったゴンドラ飛行船を開発
  • 雪男ヤー・ティ(チェコ語で「私・君」)を考え出す(後にイギリス人によって「イエティ」として広められる)
  • 他にもビキニ、CD(ツィムルマンのディスク)、インターネットの理論、低脂肪乳など、数多くのものを発明
  • (ナイフとフォークを使って食べることがいかに効率が良いかを教えるため、日本へ渡ったなんていうエピソードも。)

世界中を放浪する歯科医として働いていたそうだが、チェコで幾人もの口を開き、彼らが抱える問題や不満を聞くうち、作品の題材と出会い、劇作家として目覚めたそう。しかしながら当時、彼の作品があまりにも芸術性の高いものであったために、文学評論家からの理解は得られることはなかった、とか(詳しくはこちらのHPを)。
 ええ! っという感じですが、実は……
 彼は、実は劇作家ラディスラフ・スモリャークとズディェネク・スヴェラークが考え出した架空の人物。しかしながら、チェコ人の間でヤーラ・ツィムルマンの人気は絶大。劇場には彼の銅像が置かれている。
 よくできたネタですね。驚きです。
 それから、謎の男が語るトナカイの話は、(知っている人にはピンと来たと思いますが)「シュレーディンガーの猫」を踏まえています。いわば“シュレーディンガーのトナカイ”、いや、“エヴェンキのトナカイ”。リンクを張ったウィキペディアの説明は必ずしもわかりやすくないですが、かといって、他にネット上では簡潔な説明が見つからない……。要は量子力学の思考実験です。以下、『ブリタニカ国際大百科事典』からの引用。
箱の中で原子が崩壊すれば中のネコは死に、崩壊しなければ生きているものとする。原子の崩壊は量子力学的現象であり、原子は崩壊と非崩壊の状態の重ね合わせとされる。ノイマンに従えば、一定時間後には、ネコは半分生きており半分死んでいることになり、人間が箱を開けたとたんネコは生か死に至るという論理が成立する。
というパラドクスです。量子レベルでは確率的状態というのは漠然と理解できても、それがマクロなレベルに引き写されると常識と相反する現象になるので、またそこで、それをどう解釈するかという問題が起きてしまいます。コペンハーゲン解釈とか、多世界解釈とか。波動関数の収縮というのは、少し言葉を変えてピンチョンの小説『メイスン&ディクスン』にも出てきました(これもアナクロニズムですね、もちろん)。

(了)

2014年7月7日月曜日

歴史をさかのぼる



歴史をさかのぼる
(http://www.hashslingrz.com/going-back-history)

ハッシュスリンガーズ著 于淼・木原善彦訳

 監視カメラのビデオ映像が巻き戻され、再び自動で再生が始まると、彼は映像を一時停止し、最後にもう一回、顔を拡大してスローで映像を見直す。
 「いや、この男はただ、金曜日の祈りに行こうとしているだけのブラッドフォードの一般市民だ。われわれがマークしている人物よりずっと背が高くて、やせている。でも、私を呼んだのは正しい判断だ。この男はターゲットと同じナイキのニットキャップをかぶっている。いいところに目を付けたな。これ以上見る必要はないが、ブラッドフォードとリーズのモスクから目を離してはいけない。ターゲットはまだこの地域に残っていて、まだ仲間と一緒にいるだろう。もし他に何か気づいたら連絡してくれ」
 人間工学的に最適化された回転イスと三面スクリーンの操作台席から立ち上がり、回れ右して作戦室の高度防火戸をくぐり、エレベーターへと続く廊下をキビキビと進む。後ろにある大きなモニターから響いてくる二十四時間ニュースを無視し、下行きボタンを押す。エレベーターが上がってきて、扉が開く。中に入ると、一階のボタンを選ぶ。頭の中は空っぽだ。週末の予定も、今週調べてきた膨大な機密情報のことも考えられず、ただただぼんやりしていて、下へ向かう道中エレベーターに出入りする職員にも気がつかない。
 今日はもう遅いので、MI6の本部に帰る必要はない。ミルバンク法律事務所へ行くことは午後にテレビ電話を通じて行われるアメリカ国家安全保障局との近況報告会議――アメリカサイバー軍の専門用語では「朝の祈祷」――をサボるためのちょうどいい言い訳であった。ビデオ通話の内容はきっと、ロンドンにいる同僚との会議と変わらず、最新の携帯電話や車の性能、そしてヌードバーに関する冗長な自慢話だ。彼はアメリカの情報部員に嫉妬していたわけではないし、潜在的なコンプレックスで疎外されていると感じたわけでもなかった。秘密の人脈に対するあこがれもなかったし、新しいテクノロジーや自由に手に入れられる性的満足感も、彼を虚しさから解放できなかった。
 彼はグレート・ピーター・ストリート側の入り口から出て、ビクトリア駅へ向かう。道すがら、違法駐車のジャガーの下に落ちたマクドナルドのハンバーガーの箱を拾っている、蛍光のベストを着たカリブ系の年配の清掃作業員とすれ違う。左に曲がって、ヴィンセント広場から少し入った賃貸のワンルームマンションに着く。すると共用玄関で、一階に住んでいる老婦人のジョーンに話しかけられる。ジョーンはいつも皆から、住人に関わるうわさ話を聞き出そうとする。まるで彼女は、禁じられた外の世界からの情報を住人から聞き出そうと、出入り口に一生居座っているかのようだ。
「あら、久しぶりね! しばらく見なかったけど、二、三週間ぶりかしら? また海外へ出張でも?」
「ネバダ州でコンピューター関係の会議です。実は今週の始めに帰ったんですが、いつも遅くまで仕事をしているので」
「ネバダ州? あっちは砂漠ばっかりじゃないの。そこでコンピューターの仕事なんて奇妙じゃ……」
「ラスベガスですよ。でも正直、まったく退屈な仕事でね。丸一週間コンピューターのモニターとにらめっこです。観光をする暇もない」
 実は彼が参加していたのはハッカーの世界大会“デフコン”だった。彼が普段の生活について他人に話すとき、その内容はかなり真実に近い。いったん組織に参加したら、初日の第一課から、情報保護の誓約をする引退の日まで、基本的な掟が何度となく繰り返される。すなわち、いつも作り話を持っておくこと。最も効果的に嘘をつくには事実に基づいたものにすること。そして、常にうんざりした口調で質問に答えることだ。
 退屈な仕事だと言えば、他の人がさらに詳しい話を聞こうとすることもないし、話はすぐ別の話題に移る。彼が初めて保安任務を遂行した際は、北アイルランド問題が収束に向かっていた時期だったので、「私は北アイルランドにあった基地を撤収する作業をしています。主にデスクワークで、命令書や送り状、執行状《ディスパッチ》などくだらない雑務ばかりです」と話すよう勧められた。誰が命令を下していたか、誰が送り状を受け取るか、またかわいそうにも|殺害実行《ディスパッチ》されてしまったのは誰だったか、などがその先の会話の中で聞かれることはなかった。
 他の多くのメンバーと同じく、彼はケンブリッジでこの組織に入り、当初は、英雄たちのロマンチックな冒険物語に魅了されていた――アーサー・コノリー、ベイリー大佐、ヤングハズバンドとその仲間たち。誇張された英雄、歴史上の先駆者、ロシアを相手にしたグレート・ゲーム、広大で未知なものへの挑戦、中央アジアの平原と山脈横断の旅、雪原を越えて禁断のチベット僧院へ至る探検。携行するのは最低限の必需品のみ。何週間も本国との連絡はなし、支援者をすぐに呼べるような魔法の合い言葉もなし。
 今日では、組織が「危険地域」と見なしているのはブッドフォードやリーズ、マンチェスターなど北部の都市近郊に住むアジア系コミュニティーだ。たとえ昼間でも直接地上から入るのは怖いので、作戦行動は完全にテクノロジーに頼りきりだ。モスクの入り口に仕掛けた隠しカメラが絶えず遠隔視聴センターに映像を伝え、携帯と固定電話は盗聴、Eメールとウェブサイト閲覧履歴に関する情報は中部イングランドの田舎にある広大なコンピューター処理センターに取り次ぐ。
 全ては遠隔的、自動的、疎外的で、人間の直観や理解は介在しない。昔のロマンスはもはや消え去り、ヤングハズバンドがチベットで経験した神秘的な出来事も、幻想も、精神の覚醒も、はるかなるアルタイルの導きも、ことごとく、現代技術のもたらした効率的手順によって排除されてしまった。
 彼が世界から疎外されていると感じるのは、単に厚かましいアメリカの国家安全保障局のスパイたちのせいでも、また彼らの酒宴や低俗なストリップ劇場通いのせいでもない。あらゆる業務に浸透しているハイテク装置は、敵を切り離すだけではない。あらゆるものを孤立させてしまうのだ。それも完全に。
 彼は自分の部屋の前に着き、ドアを開けてリビングに入る。カーテンを引いて、服を脱ぎ、きちんと畳んでから、ぽつんと置いてある椅子の上に重ねる。そしてキッチンの隅にあるエドワード七世時代風の、上部がドーム型になった幅広のトランクを開けた。丈夫な金属のバンドが縁をぐるっと囲い、側面で十字架を作っている。彼は裸のまま、蓋を持ち上げ、トランクに入る。仰向けになり、両足を胸に抱き寄せ、ほとんど胎児のように、革で縁取られた空間を自分の体で満たす。彼は内側の縁に指を掛けて、蓋を下ろす。トランクは自動ロックの掛け金のカチャッという音とともに閉まる。完全なる闇の中、彼は瞳を閉じて虚無が自分を包み込むのを待ち構える。

【訳者解説】
 ハッシュスリンガーズさんにしては珍しく、静かな雰囲気の超短編。テクノロジーのせいで冒険とは全く縁がなくなったスパイの孤独……。古いトランクに閉じこもる結末も余韻があっていいですね。
 「MI6の本部」と訳した箇所は、原文では"the hanging gardens of Vauxhall, Babylon-on-Thames"となっていますが、今回は(ためしに)脚注を付けないという方針で、わかりにくそうな単語も訳文自体にできる限り説明させるようにしてみました。二〇世紀初め頃のイギリスのスパイたちについても、「文脈的に、二〇世紀初め頃のイギリスのスパイなんだろうなあ」ということさえ分かればいいということにしました。
 というわけで、註はなし。解説も特に必要なさそうですね。
(了)