2013年10月23日水曜日

オフィスから私用電話



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳
(http://www.hashslingrz.com/abusing-office-phone)

オフィスから私用電話

 かつてはオーガスタが職場で大事にされた時期もあった。子供たちが生まれる前、産休を取る前、苛烈な離婚の前のことだ。夫は結婚前取り決め書を偽造して不相応な財産を分捕り、残された金もすべて、親権争いのために雇った弁護士どもに持って行かれた。だから元夫が今、ニューヨーク証券取引所の総合指数が一万を超えるのを眺めながら、自分の持つ株式売買選択権ににやついている一方で、オーガスタは短期契約の仕事で食いつなぐ有様だった。人生のどん底。彼女は結局、元夫が作ったいちばん新しいIT会社に雇われ、誰もやりたがらないテストを山ほど引き受ける羽目になった。同僚は皆、成人したばかりでニキビだらけの男たち。何も知らないくせに、何でも知ったかぶりをする連中。職場に一人だけ女が混じると、スケベな夢想の種にするか、あるいはオーガスタの年齢に近づくと、ここぞとばかりに性差別と年齢差別の標的にするようなやつら。でも今日が最後。だから、オーガスタはあるいたずらを計画していた。
 「やあ、おばあちゃん、机の上にあるその妙ちくりんな道具は何だい?」 はいはい、リック。いつものように挑発的なご挨拶だわね、とオーガスタは思った。
 「VAXクラスターで動くARM11のチップ。OSはBLISS、FORTRAN、ADAのコンパイラを使ったVMS。共通言語環境がターゲットよ。今作ってるのはまだプロトタイプだけど」
 「はあ? 古くさ。コンピュータはどこで習ったの? 石器時代?」
 「履歴書に書いた通り。ノースヨークシャーのハロゲート。つまりイギリスよ、リック」
 「はあ? エゲレス? やっぱ石器時代じゃん。博物館行きって感じだね。もうすぐ、新しいインターネット・ホスティング・サービスに使うためのブレードサーバーがいっぱい届くから、さっさとそこを空けといてくれるかな、おばあちゃん」
 「すぐに終わるわ、ニック。今、もうこれで最後だから」
 オーガスタはモデムを電話のジャックにつないだ。
 「何やってんの。それ電話をつなぐところだぜ。ネットワークコンセントは机の下」
 「ありがとう、リック」
 彼は本日三杯目のモカ・フラペチーノを飲みに、オフィスの休憩コーナーに消えた。
 しかし、オーガスタが必要としていたのは、まさに旧式の電話通信サービスだった。時は二〇〇七年。本当に大事なものはVMSで動いている。証券取引、航空機の管制システム、郵便サービス、国税局、国家安全保障局、銀行とATM。基本的には重要なもののすべてだ。なぜなら、|コンピュータ緊急対応チーム《CERT》が報告するVMSのセキュリティー問題一件に対して、Linux なら二十件、Windows なら三十件の問題があるからだ。
 とはいえ、エシュロン《ECHELON》設計の中心メンバーで、監視プログラムSILKWORTHを一人で作ったオーガスタにとって、セキュリティは相対的な尺度でしかない。そうした最重要システムの多くに、とっくに忘れ去られた通信プロトコル X.25 DTE がまだ残っているのを彼女は知っている――使われないまま、そしておそらく誰にも愛されないまま、オーガスタを待つプロトコル。まずはJANETを呼び出す。簡単に侵入。アカウントはいまだに有効。パスワードの変更もなし。コマンドラインで向こうにバッファオーバーフローを引き起こし、スタックを詰まらせる。FINGERでリモートのホストコンピュータを調べれば、SYSPRVはちょろい。あとはXOTのトンネルを使ってアビリーンを経由(船が揺れますので席をお立ちにならないでください)。DNICSを二つほど抜ければ、ウェルズ・ファーゴ銀行。
 「なあ、オーガスタ。まだオフィスで私用電話してんの?」。リックが戻ってきた。山羊髭からスニーカーにモカがしたたっている。
 「すぐに終わるわよ」
 「あんた本当は、何年も前に終わってるけどな。俺らはAjaxを使ってきびきび仕事してる。きっとあんたにとっては、エイジャックスはバスルーム用洗剤の名前、きびきびといえばラジオ体操なんだろうなあ」
 「あなたって面白い人ね、リック」
 交換仮想回線確立。口座にアクセス。ケイマン諸島に送金完了。ふう。元夫のビジネスには多大なベンチャーキャピタルが投下されているから、この金がなくなっていることに誰かが気付くのは遠い未来になるだろう。仮に気付いたとしても、巧妙に隠蔽された金の動きはこの新設企業のオフィスまでしかたどれない。監査人はたぶん、このIT会社もまた経営が危ないと思うだけだ。
 「そこにいる高齢者のお方、サーバーが届きましたよ。そこ、ちょっと邪魔なんですけど」
 「いいわよ。もう終わった。リック、あなたの言う通り。もう切らなきゃね。仕事も終わったし。引退して、カリブ海にあるどこかの島に行くことにするわ」

【訳者解説】
 今回の短編はやたらにネット関係の難しい語が出て来るので、訳の正確さに自信が持てません。その方面に詳しい方はぜひ原文をご参照ください。ネット監視システム、エシュロンは説明不要でしょうか。ちなみに、「オフィスから私用電話」というフレーズは、ピンチョン『ブリーディング・エッジ』の5頁で、主人公マクシーンがオフィスに出勤したら、受付の女の人が私用電話を掛けているという場面に登場します。
 ついでにコマーシャルをすると、来月(11月6日)発売の文芸誌『新潮』に『ブリーディング・エッジ』の書評を書きました。書評といっても半分は新作発売までのいろいろな動向(一月に新作発売の噂が流れてからの動き)で、残り半分が新作紹介という感じです。乞うご期待。
(了)

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