2013年10月8日火曜日

トラフィックを増やすには



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

トラフィックを増やすには
(http://www.hashslingrz.com/build-your-traffic)

 ハンドルをぐいっと引くと前輪が縁石を跳び越え、後輪が横向きにスリップし、自転車が停まる。彼は自転車を街灯に鍵で固定し、マンハッタンの繁華街にある食堂に入った。ニューヨークの街路は、エド・ガンダーソンの人生における涅槃《ニルヴァーナ》だった。彼の夢は子供の頃にさかのぼる。テキサス州オースティンで最速の新聞配達気取りで自転車を駆り、住宅の裏庭フェンスの隙間を抜け、郵便受けに新聞を放り込み、自転車メッセンジャーとしての未来を夢見た。ロウワーイーストサイドのワンルームアパートに暮らしながらも、気分は上々だった。エドにはメッセンジャーの仕事が本当に合っていた。マディソン街に一マイル連なるタクシーの列を蛇のように抜ける最短コースを本能的に見つけ、ミッドタウンマンハッタンにある全ての信号が変わるタイミングを記憶し、バスの間を縫い、歩行者と車のドアを避け、ベーグルをがっつくのに忙しい交通整理の警官に見とがめられることもなかった。
 今日の彼は大きなチャンスを手にしていた。|自転車代替輸送企画《WASTE》の代表、マセラティ氏との面接。エドの才能に目をつける人物が現れたのだ。マセラティ氏は返信のできないある|ショートメッセージシステム《SMS》を通じて彼に連絡をよこし、街中にあるこの食堂での面接を持ちかけてきた。会社の所在地や電話番号といった詳細は秘密らしい。街の噂によると、WASTEはテクノロジー関係の会社を相手にするメッセンジャー業者としては最大手のようだ。つまり、最近いちばん金のある連中と取り引きをしているということ。
 エドが店に入るとウェイトレスが振り向き、ほほ笑んだ。「マセラティさんがお待ちよ。ジュークボックスの横のテーブル」
 「ありがとうございます」。彼は店の奥のジュークボックスに向かった。マセラティ氏は信じられないほど細身で、トーストしたホイペット犬のように、こんがりと日焼けした肌がぴんと引き締まっていた。彼は大きく腕を振って向かい側の椅子を指し、エドに座らせた。
 「君のことをしばらく前から見させてもらった。ひょっとすると君は、私たちが求めているメッセンジャーかもしれない。仕事《トラフィック》を増やす気はあるかね、ガンダーソン君。そのお手伝いをさせてもらおうかと思うのだが。準備はできるかな?」
 「朝の準備の話ですか? まずは自転車を点検します。チェーン、タイヤ、スペアチューブ、もろもろ。それから天気予報のチェック。雨になりそうなら雨具を用意します」
 「いや。そういうことじゃない。それはアマチュアのやる準備だ。ゾーンでメッセンジャーをやる場合の準備はそういうことではない。やり方が違う。うちでは準備の仕方がメッセンジャーとしての――“チクリスタ”としての――仕事を決める。だから、準備の仕方を学んでもらわなければならない。いいかね。うちのライダーはヨーロッパ出身者が多い。トラックレースをやっていた元プロの連中は準備の仕方を心得ている。パウロはイタリア人で保守的だから、アンフェタミンとカフェインが専門だ。しかし一時間に六杯のエスプレッソを飲んでるおかげで、彼には夜遅くまで仕事を頼める。アーノルドはミュンヘン出身。ロデオの雄牛よりも筋骨隆々で、毎日コルチコイドステロイド注射をしているから、重い品物の配達なら彼にお任せだ。ゲルハルトはアムステルダム出身。混合薬物《ポット・ベルジェ》が専門。前の日に街角で買ったものが何でも、翌日にはポットの具材になる。コカイン、興奮剤《アッパー》、鎮静剤《ダウナー》、種類を問わず鎮痛剤、ケタミン、ペントバルビタール。何でもありさ。ゲアハルトならサウスブロンクスの犯罪最多発地帯にでも送り込める。誰一人として彼には手出しをしようとしないからね」
 「マセラティさん、俺は薬物はやりません」
 「結構結構。その気持ちは分かる。問題ない。清く正しく生きるアメリカ人青年というわけだな。じゃあ一つ、特別な仕事があるぞ。薬物は無関係だ。いいか。テクノロジーの業界ではデータを守ることが至上命令になる場合がある。A地点からB地点にデータを送るとき、普通は電話線を使う。現代のコンピュータがやっているのはまさにそういうことだと言っていい。しかし、インターネットでデータがどの経路を通るのか? これはコントロールできない。だからデータを暗号化する必要が出てくる。それでも、通信を傍受する権力を持った連中が、解読する能力も併せ持った場合どうなるか? 傍受と解読をできるやつらに、データを送ったという事実さえ教えたくない場合、どうする? 唯一安全な解決策は空隙《くうげき》を作ること。A地点でデータを取り出し、電話線上で検知されることなく、離れた地点まで運び、そこで解読。コンピュータ科学者は最近、“今はビッグデータの時代だ”などと言いつのっているが、ビッグデータは昔から私たちのすぐそばに、いや、もっと正確には私たちのにあった。ヒトのDNAの内部にどれだけの情報が含まれているか、知っているかね? たった一グラムの中に七百テラバイト。ハードディスクドライブにそれだけの情報を書き込んだとしたら、運ぶのにトラックが何台も必要になる。われわれは遺伝子的な指示書きの力を利用させてもらうのだ。真っ昼間にニューヨークの街中で巨大なデータを運んでも、誰の目にも留まらない。まず、君の血液を一リットルほど取り出す。後日、君には自分の血液を注射で戻す。君の染色体内の、使われていない部分のDNAを組み換え、そこにデータの中身を入れておくのだ。データは運び人の目にも見えない。受取人のところまでデータを運んだら、また一リットルの血液を取り出す。元の血液が少しでも含まれていればそれで充分。それだけで何ペタバイトものデータが運べる。報酬はかなりなものだし、薬物とは無縁だ。その上、ラッキーなボーナスまで付いてくる。君が運ぶ荷物は――つまり一リットルの余分な血液のことだが――酸素消費の閾値《しきいち》を上げ、輸送作業を楽にしてくれる。君の荷物はいわば、マイナスの重さを持つということ。君なら史上最速のメッセンジャーになれるだろう」
 「ええ、先ほども言いましたが、薬物はなしということで。でも、分かりました、マセラティさん。俺は速くなりたい。最高のメッセンジャーになりたい」。エドは契約成立の印として握手をしながら考えた――この約束によって俺は成功するかもしれないし、駄目になるかもしれない。ひょっとしたらその両方かも。そしておそらく郵便システムは今後、これまでとはまったく違うものになるだろう、と。

【訳者解説】

・「トラフィックを増やすには」(九月十七日公開)について
 タイトルは『ブリーディング・エッジ』三四九ページに登場する表現。ストーリーは、脳に埋め込まれた記憶装置を使う情報運び人を主人公に据えたウィリアム・ギブソンの短編「記憶屋ジョニィ」、あるいはその映画化『JM』を思い起こさせる。
 主人公エドの下敷きとなっているのはテキサス州出身の元自転車プロロードレース選手、ランス・アームストロング(一九七一- )。彼はツールドフランスで七連勝したことなどで英雄視されていたが、二〇一三年初頭に現役時代のドーピングを認め、スキャンダラスな話題になった。彼は三歳のとき、母が再婚して、アームストロング姓になったが、生まれたときの名はランス・エドワード・ガンダーソンだった。マセラティはイタリアのスポーツカーメーカーを意識しての命名か。
 WASTEは『競売ナンバー49の叫び』に登場する秘密の郵便組織の略号。『重力の虹』では、第二次世界大戦が終わった直後、分割占領下のドイツが「ゾーン」と呼ばれる。
 「トーストしたホイペット犬」というのは、ツールドフランスを走る、無駄のない体格で日焼けした選手らを指す決まり文句。筋肉むきむきのアーノルドはアーノルド・シュワルツェネッガーを念頭に置いていると思われる。事前に採取していた自身の血液を競技直前に輸血して、持久力などを高める方法は「血液ドーピング」と呼ばれ、スポーツ界では禁じられている。


(了)


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