地上の世界
(http://www.hashslingrz.com/surface-world)
ハッシュスリンガーズ著 森谷卓也・木原善彦訳
カリーニングラード州のような空間的に特異な地域に対し、地図製作者は特別な親近感を抱く。戦間期、ポーランドとリトアニアとに囲まれたその地域は、東プロイセンとしてドイツの飛び地となっていた。第二次世界大戦時にソヴィエト連邦に併合されたが、ソ連崩壊後、再びそこは飛び地となった――今回はロシアの飛び地だ。おかげで地図製作者は歴史上ずっと、バルト諸国の地図を描く際、同じ国は同じ色で塗り、隣接する別の国は配色を変えるという方針を貫いた場合、色が最低何色必要になるかについて頭を悩ませてきた。皮肉にも、カリーニングラードの土地的な隔たりにもかかわらず、このバルト海岸の小さな領土を支配しようとするロシアの衝動は、連結性と連続性の問題が原動力となっていた。というのも、カリーニングラードには、おそらくこの世で最も危険なカルト集団、“ドイツ位相幾何学者騎士団”がいるからだ。
団体の起源は慎ましいもので、十九世紀半ばにさかのぼる。ケーニヒスベルク 大学の数学部に入学しようとしている学生たちは、いくつかの一見解決不能な試験問題を与えられた。たとえば、「大学を出発し、街の7本の橋をそれぞれ必ず一度、かつ一度だけ通って、大学に戻ってくるルートを見つけよ 」という問題だ。十八世紀ドイツ版のコバヤシマルとも言える、この表面上は決してうまくいかないシナリオは、見込みある志願者が不可能に直面したとき、どう乗り切るかを判断するためのものだった。レオンハルト・オイラー の理論に精通している有能な学生は、頂点とそれに伴う辺を数えあげ、問題が解決不可能であるという数学的根拠を明確に述べた。試験に落ちた一人の学生は試験の後でとんでもない解決に訴えようとした――橋を一本爆破しようとしたのだ。
数学部の入試に合格した者の多くは間もなく、“麦酒同好会《ビエトリンカー・ブルダーシャフト》”に加わった。同好会は正式には、ドイツ位相幾何学者騎士団と呼ばれていた。イマヌエル・カントの教えを奉ずるこの哲学的な一派は、「自分自身の悟性を使う勇気を持て」という言葉をモットーとしていた。試験に落ちた学生がダイナマイトを使って問題を解こうとしたという伝説もまた、不可能を可能にするのに近い、啓発的な考えの英雄的なモデルとして、団体のフォークロアに組み込まれた。
時が経つにつれて、この陽気な一団は変わっていった。数学も進歩した。表と裏が無限につながったメビウスの帯、集合論のカントール、分離空間を定義するフェリックス・ハウスドルフ の公理。そうした中で、ケーニヒスベルクに関する位相幾何学者のジョークは歴史に埋もれていった。数学は無限の彼方に存在する完成に向けて際限なく突き進むかのように、絶えず進歩し、発展し、洗練されているかのようだった。
取り巻く世界も変わったが、いい方向に向かったわけではなかった。戦争、ワイマール共和国でのハイパーインフレ、繰り返される金融危機。マルクス主義、全体主義、共産主義など、次々に破滅的な“主義”が流行したが、互いに矛盾するそれらのイデオロギーでは、問題の解決はできなかった。そうした“主義”が信用ならぬ過去へと消え去った後を、“新○○”が受け継いだ。新自由主義は世界規模の究極の富をあおり、新マルクス主義は偉そうに後期資本主義を語り、新ケインズ学派は財政刺激で民衆をペテンにかけた。変わったものは何もなかった。“新○○”は結局のところ、ただの看板の掛け替えにすぎなかった。現実世界の人類は、進歩や出口のない無限のループに閉じ込められ、進歩のアンチテーゼは数学においてのみ実現された。
ソヴィエトによる侵略の後、位相幾何学者団体は秘密主義をいっそう徹底するようになり、世界を繰り返される過ちのサイクルから開放するために数学の知識を使うことを誓う抵抗勢力《レジスタンス》となった。そしてプロイセンの騎士によって建造された十二世紀の砦の遺跡である、カリーニングラードの地下に隠された広大な通路や地下トンネルに身を潜めた。使いやすさばかりを考えた、参議院議事堂の強化コンクリート製建物の下での新たな生活。地上の巨大な建物は再建されたソヴィエト風の都市景観の中で、まるで大きな箱型のロボットが捨てられているかのように見えた。彼らは今、位相幾何学の符号に詳しい者だけが理解できる幾何学的暗号が記された地下世界の通路に住んでいた。そしてナチスの地下掩蔽壕への階段、地上との行き来のために備えつけられた抜け穴である下水道の出入り口、秘密組織の存在を維持するために三次元的に相互に連結されたトンネルを複雑なオイラー的回路がつなげていた。
団体の入団試験は、選り抜きの同志を選ぶ慎重な儀式となった。志願者は胴着のみを身につけ、両手を縛られ目隠しされた。そのままの状態で胴着を裏返し、裏表で着ることのできた者が、団体の一員となった。この入会儀式が表しているのは、外部を内部にマッピングする関数を見つけた志願者こそが位相幾何学の世界において真に価値ある者であるということであった。
所詮は悪意のない位相幾何学の手品じみたトリックだ。そんなものは破壊的な集団の印でない。あなたはそう考えるかもしれない。しかしながら、位相幾何学者は、長い間、ある単純な事実を知っていた。丸い球から生えている毛をむらなく梳かすことは不可能だ、という事実を。球の表面上で連続する接ベクトルを取り、それに沿って平らに毛を梳かしてみるといい。ベクトルすべての起点、それらすべてが収束する点が常に生じるだろう。位相幾何学者にとって、地球はまさに球であり、磁力や風、潮流がベクトル場だ。風が吹いていない地点、それ以上は北に行けない地点、潮流がない地点、そうした特異点が必ずある。しかしながら、どこかでは常に風が吹いている、だから数学上は、地球上のどこかでいつもサイクロンが渦巻き、風のない中心点、特異点が必ず存在することになる。
あるとき、街の地下深くで、コーヒーを飲みながら、あるいはベーグルをつまみながら、団体の重大な会議が開かれた。位相幾何学者の一人が、ベーグルを持ち上げ(もしかするとコーヒーカップだったかもしれないが、位相幾何学的には相似なので両者の違いは重要ではない――トーラスでありさえすればいい)、世界の経済的災難に対する幾何学的解決法の結論を下した。金銭もまた地表を漂うベクトル場にすぎないと彼は断じた。世界の金融システムにおける根本的問題は明らかだ。人類はプラトン立体上に存在している。だから、地上で金銭をスムーズに流通させようとするとどうしても、金が無法な掃き溜めに消えたり、各国の政府銀行が常に紙幣を印刷することが必要になったりする。新マルクス主義は間違いである。資本主義は後期の段階に達したのではなく、絶えず渦に飲み込まれているのだ。地球上のベクトル場内部のこれらの財政上の特異性の必然的結果は明らかだ。金銭供給の逸脱的な変動、渦を巻き激動する負債、にわか景気と不景気、金融上の急暴落、無秩序と悲惨な人々。この難問に対して、唯一の正しい数学的な解決策が存在するかもしれない。世界が位相幾何学的にバランスをとらない限り、金融政策は決して安定しないだろう。そしてドイツ位相幾何学者騎士団は、どうすればそれが実現できるのかを理解した。「われわれは自分自身の悟性を使う勇気を持ち、地球にでっかい穴を開けなければならない」と。
そう。みなさん、ロシア人がドイツ位相幾何学者騎士団が地上に戻ってくる日を恐れているのは、だから、当然のことなのだ。
【訳者解説】
これまた理系風味(今回は特に幾何学、位相幾何学)がかなりきいた、私好みの短編です。仕掛けが分かるとすごく楽しい。地球にでっかい穴を開けて地球上のベクトルの流れを一気に変え、経済の問題を解決するという飛躍も大胆かつウェルメイド。ピンチョン風超短編ハッシュスリンガーズらしい作品です。
冒頭はいわゆる「四色問題」あるいは「四色定理」を踏まえています。四色定理とは、いかなる地図も、隣接する領域を違う色に塗り分けるには四色で足りる(やや意外に思えるかもしれませんが)という定理。ただし、ここで厄介なのは「飛び地」の問題です。(本国から離れて他国領地内にある)飛び地は本国と同じ色でなくてもよいのなら四色で足りるのですが、飛び地をちゃんと本国と同じ色にしなければならないという条件が付くと、必要な色の数はいくらでも増えてしまいます。だから、この短編中で地図制作者が頭を悩ませているわけです。
他のややこしそうな語句についても簡単に説明を。
位相幾何学(トポロジー)。比較的新しい幾何学の分野。トポロジーの名称はギリシャ語のトポスとロゴスの合成に由来するもので、直訳すれば「位置の研究・学問」。wikipediaの該当ページを見ると、ケーニヒスベルクの橋の問題やコーヒーカップとドーナツのことなど、この短編を読むのに鍵になる要素が概観できます。
ケーニヒスベルクはカリーニングラードの旧称。
「ケーニヒスベルクの橋の問題」は有名な一筆書きの問題。数学者オイラーは、この問題をグラフに置き換え、グラフが一筆書きできないことを証明し、問題を否定的に解決した。オイラーは数学者であると同時に、物理学者、天文学者でもあった。微積分成立以後の18世紀の数学の中心となって、続く19世紀の厳密化・抽象化時代の礎を築いたとされる。スイスのバーゼルに生まれ、サンクトペテルブルクにて死去した。(1707年4月15日 - 1783年9月18日)
「コバヤシマル」はアメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズに登場する、シミュレーション課題の1つ。これも「ケーニヒスベルクの橋の問題」と同じく、実は解けない問題というところがミソです。
カントールは(『逆光』読者にはおなじみですが)ドイツで活躍した数学者。素朴集合論の確立者。(1845年3月3日 - 1918年1月6日)
ハウスドルフはドイツの数学者。位相空間などの研究に貢献した。(1869年11月8日-1942年1月26日)。
目隠しをして、両手をくくったままで、胴着(チョッキ、ベスト)を裏返しにする、という位相幾何学的課題が解決可能かどうかは(私の頭では)不明。
「球に生えている毛を梳かすのは不可能」という部分は分かりにくいかもしれません。丸いボールの全体に毛が生えているのを想像してください。それを人間の髪の毛みたいに、櫛やブラシで梳いて、寝かしつけようとします。すると、全体をきれいに寝かすのは無理で、どうしても頭頂の“ぎり”みたいに「髪の流れの起点」と、その逆に「髪が集まって突っ立ってしまう地点」ができます。それがここで言う「特異点」。これは相手が球だから生じる問題なので、ドーナツみたいに穴を一つ開ければ、全体を平らに寝かすことができます。だから、「地球にでっかい穴を開ける」という(とんでもない!)解決につながる。
なお、位相幾何学的には、ドーナツみたいな一つ穴の形状を「トーラス」と言います。多くの人は「位相幾何学」という単語を覚えるのと同時に、「位相幾何学的には、ドーナツもコーヒーカップも同相である」という言い方(考え方? ものの見方?)も覚えます。
プラトン立体というのは正多面体のこと。すべての面が同一の正多角形で構成されてあり、かつすべての頂点において接する面の数が等しい凸多面体。正多面体には正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の五種類がある。
翻訳も厄介ですが、注も厄介な短編でした。
【追記】
いろいろ調べているうちに、「位相幾何学者がベーグルを本気で切ってみたらこうなった」みたいな記事が見つかりました。きっとこのジョージ・ハート氏はドイツ位相幾何学者騎士団に属しているに違いない……。
【追追記】
球をドーナツ型に変えてベクトルの流れを・・・というあたりの話は「ポアンカレ=ホップの定理」として数学的に定式化されている問題だということです。友田とんさん(@tomodaton)情報をありがとうございました。
(了)
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