2014年5月29日木曜日

クイック・パラディドル



クイック・パラディドル(箸を使って)
(http://www.hashslingrz.com/quick-paradiddle-her-chopsticks)

ハッシュスリンガーズ著 舞さつき・木原善彦訳

 ワシントンの中心街にあるレストラン、レゾニョン(Les Oignons)の厨房でせわしなく働くリリアンの心は浮き立っていた。WJSVのラジオキャスターは、ヨーロッパでまた戦争が起きそうだと話している。リリアンは彼を無視し、ゴスペルの時間を心待ちにしていた。リンカーン記念館でマリアン・アンダーソン が歌うのを見たのは二日前のことだ。大統領夫人の後押しのもと、彼女は観客に向けて歌った。

音楽がそよ風を吹かせ
すべての木々から鐘が鳴る
素晴らしい自由の歌

 リリアンは歌い始め、料理長《シェフ・ド・キュイジーヌ》のジャックの方を向いた。彼が一緒に歌ってくれることを期待して。しかしどうやら彼は歌う気分ではないらしい。
「あら深刻な顔しちゃって、ジャック。何かあったの」
 ジャックはレゾニョンの歴代シェフの中で一番の腕前だった。彼はスフレを作っている最中で、泡立て器を両手に、右手は円を描くように、一呼吸遅れたリズムで左手でも掻き混ぜていた。右左、右左。
「また白人どもの戦争が始まるよ、リリアン。やつらはニグロを戦地に送るだろう、間違いない。けど今回は騙されない。俺は世界大戦《グレート・ウォー》の時、向こうで戦ったんだ。なにがグレートなもんか。あるのは泥沼か血の海。そこで銃弾が鈍い音を立てて胸に当たるのを待つか、悪けりゃ毒ガスの中で吐いて死ぬかだ」
「あんたが昔の話をするなんてね。どうしてフランスに行くことになったの、ジャック」
 ジャックは自分の過去を話したがらない人だった。リリアンが彼を知ってから一年かそこらが経っていたが、彼がレゾニョンに来る前の話をするのはこれが初めてだ。
「俺はジョージアのオールバニーで生まれた。母ちゃんと父ちゃんは俺をユージーンと呼んだよ。学校ではジーンだ。幼い時だった、俺は夜に父ちゃんが暴徒にリンチされるのを見たんだ。そしてヨーロッパへ逃げたのさ。フランスの外人部隊に入隊して、名前の綴りをフランス風にJacquesに変えた。ソンムで戦う羽目になって、戦場に横たわる何百もの亡骸を見たよ。ハリケーンの後に浜に打ち上げられた流木みたいだった。休戦後、アメリカに戻ってもすることがないからパリへ出た。フランス料理の技術を学ぶためにね。フランス共和国に人生を捧げようとしたんだが、戦争が終わりゃ俺は勇ましい英雄でもなんでもない、ただのアメリカのニグロさ。誰も俺をシェフ見習いにしようとしない。やっと見つけた仕事はハウスバンドのパーカッション奏者だった。モンマルトルの裏通りのナイトクラブでだ。俺を羨むやつもいるだろう。素晴らしい仲間と演奏していたからね。シドニー・ベシェ 、ジャンゴ 、ルイ・ミシェル にジョセフィン・ベーカー ……でも俺が憧れてやまなかったのは、完璧なクレーム・ブリュレの秘密だった」
 ジャックはボウルの端でキレの良いタップを交互に四回行い、泡立て器に付いた卵を落とした。そして手を伸ばし、パン生地の入った三十リットルボウルを鍋の上から降ろした。彼は夜に出すブリオッシュのため、それをこね始めた。肘は横に、手のひらは下に。ジャックはたくましい男で、肩幅は広く、手もとても大きかった。彼にかかれば作業は朝飯前だ。リリアンはよく彼をからかっていた。あんたが麺棒を使ったら、まるでお箸みたいね、と。ジャックはバター入りペストリー生地を、ダブルストロークパターンを使ってこねる。左は優しく、右は強めに。ドラッグタップで左右を入れ替え、生地を引き伸ばしては持ち上げ、リズムを上げながらそれを繰り返す。最後はオーク製まな板の上で、マルチプルバウンスロール。
「毎晩、俺はナイトクラブの隅に置いてあったラディックドラムの前に座らされた。けれども、いつも厨房のシェフの動きをタム越しに覗き込んでたよ。やつがやることは何でも見えていた。すぐにそいつのみじん切りを俺は真似し始めた。家に帰ってバンドメンバーに夕食を作るようになって、ドラムを叩きながらこっそり調理方法を学んで、どうにかして俺流の調理スタイルを編み出した。俺の腕はまずまずのもんで、どの料理もオリジナルだった。ある夜、キャバレーの歌い手でベルリン生まれのヒルデ・ウルフクローネが俺のシュー・ア・ラ・クレームを食べた。彼女はそれを気に入り、小さなクロッケンブッシュのため昼前に、俺のとこに立ち寄るようになった。いつのまにか単純にお菓子を楽しむ以上の仲になっていった。関係が始まり、時間さえあればいつもこそこそ彼女と会ってたよ。俺たちは誰も止められないくらい激しく愛し合った。最高だった、フランス人になった気分さ! その後、彼女は耳元で『愛は秘め事《リーベ・イスト・アイン・ゲハイムニス》』を歌ってくれるようになった。愛は秘め事。まったくその通りだよ。彼女はトランペット奏者のディック・ツィーゲルと付き合ってるなんて俺に一言も言ってなかったからね」
 ブリオッシュをオーブンに入れ、ジャックはステーキ用の牛肉を叩き始めた。慎重にマレットの支点を手の甲と均衡にし、泡立てと同じリズムで肉を叩く。マレットが跳ね返る。スピードが高まる一方、凄まじいパワーとコントロールは衰えぬまま。締めはアンダンテで、肉の繊維を叩き終えた。
「ディックは嫉妬深いやつでね。よく酒やヘロインでハイになってたよ。やつは銃を手に俺を探してやがった。銃撃戦になって何人かが傷を負った。モントマルトルだとはいえ、もし黒人が銃をぶっ放してみろ。ぼこぼこにされるに決まってる。だから俺は逃げた。そしてここワシントンに来たってわけさ。」
 次はコンカッセに使う野菜の下ごしらえ。包丁を両手に、大まかに切り刻む。連符をアレグリッシモに、五対四のポリリズム。仕上げに、ジャックは奥の流し台に向かって二本の包丁をぽいと放り投げた。それはウォッシュボードにぶつかり、ファンファーレのような音を鳴らした。
「昨日、俺はフランス時代に仲の良かったクロードに会った。ディックとグレタがワシントンに来てるらしい。グレタは映画に出演するため、ディックはドイツ系アメリカ人協会を通じてファシズムプロパガンダを広めるためにだ。ただクロードの話では、ディックは俺がこの街にいるのを知っていて、仕返しを目論んでるらしい」
 彼がそう話した時、レストランのドアが開いた。ディナー客が来るには早すぎる。給仕長も最初のお客まであと一時間はあるだろうと考えていた。リリアンは店内の様子を見に行き、ジャックは配膳口からそれをじっとうかがった。そこにはヒトラー風の髭に、ポマードできっちりと髪を横に分けた、小柄な金髪男性が立っていた。ディックだ。テーブルにトランペットケースを置いた後、ディックは顔を上げ、ジャックが配膳口からこちらを見ている姿を確認した。
「ついさっきボルチモアから何が届いたかを教えてやろう、ジャック」。ディックはトランペットケースを開け、ドイツ製拳銃ルガーを取り出した。「俺様、そしてこの拳銃だ《イッヒ・ウント・ディス・ピストル》。俺のヒルデを朝飯のオランジェみたいに搾りとって、ただで済むと思っていたわけではあるまい、ジャック。貴様をシュウェンカーみたいに吊るしてやろうか」
 隠れる場所はない。非常口は先週不法侵入があったため鍵がかけられている。鍵を持っているのは給仕長だけだ。ジャックは近くにある武器を掴んだ。リリアンが洗っていた山積みの麺棒だ。ディックが離れた距離で無駄に弾を使っている間に、何とかするしかない。「確かに俺はあんたの奥さんと関係があった。俺たちは何時間もじっくりと愛を育んだよ。やさしく、コトコトと煮込むようにね。ああ、俺は本当に美味しいソテーをヒルデといただいた。“ソテー”の意味は知ってるかい、ディック? “跳ぶ”って意味だよ」
 ジャックが浴びせかけた言葉にディックは憤慨した。彼はコンポートした桃みたいに真っ赤な顔で、銃を持つ手を上げた。左側から一発目をぶちこむ直前に、リリアンはテーブルの下にかがみこんだ。ジャックは右側から麺棒を投げて反撃する。左から、さらに二発の銃弾。右からは麺棒。皿に当たりとんでもない大きな音が鳴った。ディックはもう一発、左から弾を撃ち込んだ。ジャックも負けずにやり返す。右から麺棒を連投し、一本はルガー拳銃を床に叩き落とし、もう一本はディックの突き刺すような青い両目の間に命中した。彼は一瞬意識を失い、後ろにのびた。
 ジャックはその瞬間を見逃さず、店の中を突っ走る。ドアを開けている暇はない。彼はジャンプし、正面のガラス窓に飛び込んだ。着地は成功、幸運にもこの脱出による怪我はなし、ジャックの逃亡劇の始まりだ。
「歌い続けるんだよ、素晴らしい自由の歌を。リリアン」ジャックは叫んだ。
「手紙をちょうだいね、ジャック」リリアンは叫び返した。ジャックが消えていった暗がりに向かって。


[死の黒ツバメを追悼して(もちろん他の方々も)――安らかに眠りたまえ]


【訳者解説】
 久しぶりにジャズネタをたくさん織り込んだ短編です。昔のジャズミュージシャンらにささげた作品。ドラムの技法で料理をするという超絶技巧。麺棒対拳銃の対決は漫画的というか、香港映画的というか、スラップスティックですね。
 ハッシュスリンガーズさんは音楽好き(特にジャズ)らしく、ドラムの技法についても詳しいようです(ツイッターのプロフィールにも、一時期、ドラム練習中と書いてあった気がする)。ここで言及されている叩き方については下に少し注釈を添えましたが、ユーチューブなどでドラム練習法みたいな動画がたくさん見つかるので、ご興味のある方はそちらをご覧ください。
 その他、いくつか注釈を。
・マリアン・アンダーソン(1897-1993)。アフリカ系アメリカ人歌手。1939年に肌の色を理由にコンサートを拒否される事件が起きるが、エレノア・ルーズベルトが急遽リンカーン記念館の階段からコンサートを行うことが出来るよう手配し、1939年4月10日にアメリカ全土から7万人もの人が押し寄せた(http://youtu.be/mAONYTMf2pk)。ここで歌ったのは『My Country, 'Tis of Thee』でアメリカ合衆国の愛国歌の一つ。リリアンが短編の中で歌っているのはこの曲の三番の歌詞の一部。二日前に聞いたとあるので、1939年4月12日のワシントンが短編の舞台と思われる。
 ちなみに、マリアン・アンダーソンのリンカーン記念館コンサートと言えば、リチャード・パワーズ『我らが歌う時』の最初の方で重要な事件としてこの歴史的出来事が描かれています。ついでに(我田引水ですが)、デイヴィッド・マークソンの『これは小説ではない』には、ワシントンDCにあるDARコンスティテューションホールという施設が黒人であるマリアン・アンダーソンのコンサートの開催を許可しなかったときに「当施設では、今後もずっとマリアン・アンダーソンのコンサートが開催可能な日程はございません」という通知を送ってきたという事実が記されています。
・ソンムの戦い。第一次世界大戦最大の会戦。北フランスソンム川流域で行われた。
・シドニー・ベシェ(1897-1959)。ニューオーリンズ出身のジャズミュージシャン。クラリネット、ソプラノ・サックス奏者。ベシェの演奏する「レゾニョン(=玉ねぎ)」(https://www.youtube.com/watch?v=hNIBkE1ekF8&feature=kp)という曲がユーチューブで聞けます。レストランの名前はここから来てるみたい。
・ジャンゴ・ラインハルト(1910-1953)。ベルギー出身のジャズミュージシャン。ギタリスト。
・ルイ・ミシェル(1885-1957)。アメリカのジャズドラマー。
・ジョセフィン・ベーカー(1906-1975)。セントルイス出身のジャズシンガー、女優。黒いヴィーナス。
・ダブルストローク。スティックを一回振り下ろして打面を二回打つ、"ふたつ打ち"というドラムの叩き方。RRLL。
・ドラッグタップ。左右交互となる二つの音符からなり、最初の音符にドラッグの装飾音がつき、二番目の音符にはアクセントがある。LLRLRRLR。http://www.momoska.com/single-drag-tap.html
・マルチプルバウンスロール。左右交互に、任意の回数バウンドさせてドラムを打つパターンで、「バズロール」とも呼ばれる。均等で連続した音を出さなくてはならない。http://www.momoska.com/multiple-bounce-roll.html
・「ヒルデ」という名はヒルデ・ヒルデブラント(1897-1976)のことか? ドイツの女優。あるいは、とあるゲームの登場人物にも似た名があるようですが……。
・「グレタ」はグレタ・ガルボ(1905-1990)のことか? 言わずと知れた、スウェーデン生まれのハリウッド女優。1935年『アンナ・カレーニナ』と1936年『椿姫』でニューヨーク映画批評家協会賞、主演女優賞を受賞。3度アカデミー主演女優賞にノミネートされている。
・シュウェンカー。ドイツ、ザールランドでバーベキューの際に使われる道具。グリルを上から吊って、肉などに均等に火が行き渡らせるため、ブランコの様に揺らして使う。
・「死の黒ツバメ」というのは、ユージーン・ジャック・ブラード(1895-1961)の異名。史上初のアフリカ系アメリカ人戦闘機パイロット。第一次世界大戦でフランスのラファイエット飛行隊に所属。パリでジャズの演奏をした時期もある。この短編に登場するジャックは、この人を下敷きにして造形されているようですが、あくまでも下敷きにしているだけですので、誤解なさいませんよう。

(了)

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