2014年7月7日月曜日

歴史をさかのぼる



歴史をさかのぼる
(http://www.hashslingrz.com/going-back-history)

ハッシュスリンガーズ著 于淼・木原善彦訳

 監視カメラのビデオ映像が巻き戻され、再び自動で再生が始まると、彼は映像を一時停止し、最後にもう一回、顔を拡大してスローで映像を見直す。
 「いや、この男はただ、金曜日の祈りに行こうとしているだけのブラッドフォードの一般市民だ。われわれがマークしている人物よりずっと背が高くて、やせている。でも、私を呼んだのは正しい判断だ。この男はターゲットと同じナイキのニットキャップをかぶっている。いいところに目を付けたな。これ以上見る必要はないが、ブラッドフォードとリーズのモスクから目を離してはいけない。ターゲットはまだこの地域に残っていて、まだ仲間と一緒にいるだろう。もし他に何か気づいたら連絡してくれ」
 人間工学的に最適化された回転イスと三面スクリーンの操作台席から立ち上がり、回れ右して作戦室の高度防火戸をくぐり、エレベーターへと続く廊下をキビキビと進む。後ろにある大きなモニターから響いてくる二十四時間ニュースを無視し、下行きボタンを押す。エレベーターが上がってきて、扉が開く。中に入ると、一階のボタンを選ぶ。頭の中は空っぽだ。週末の予定も、今週調べてきた膨大な機密情報のことも考えられず、ただただぼんやりしていて、下へ向かう道中エレベーターに出入りする職員にも気がつかない。
 今日はもう遅いので、MI6の本部に帰る必要はない。ミルバンク法律事務所へ行くことは午後にテレビ電話を通じて行われるアメリカ国家安全保障局との近況報告会議――アメリカサイバー軍の専門用語では「朝の祈祷」――をサボるためのちょうどいい言い訳であった。ビデオ通話の内容はきっと、ロンドンにいる同僚との会議と変わらず、最新の携帯電話や車の性能、そしてヌードバーに関する冗長な自慢話だ。彼はアメリカの情報部員に嫉妬していたわけではないし、潜在的なコンプレックスで疎外されていると感じたわけでもなかった。秘密の人脈に対するあこがれもなかったし、新しいテクノロジーや自由に手に入れられる性的満足感も、彼を虚しさから解放できなかった。
 彼はグレート・ピーター・ストリート側の入り口から出て、ビクトリア駅へ向かう。道すがら、違法駐車のジャガーの下に落ちたマクドナルドのハンバーガーの箱を拾っている、蛍光のベストを着たカリブ系の年配の清掃作業員とすれ違う。左に曲がって、ヴィンセント広場から少し入った賃貸のワンルームマンションに着く。すると共用玄関で、一階に住んでいる老婦人のジョーンに話しかけられる。ジョーンはいつも皆から、住人に関わるうわさ話を聞き出そうとする。まるで彼女は、禁じられた外の世界からの情報を住人から聞き出そうと、出入り口に一生居座っているかのようだ。
「あら、久しぶりね! しばらく見なかったけど、二、三週間ぶりかしら? また海外へ出張でも?」
「ネバダ州でコンピューター関係の会議です。実は今週の始めに帰ったんですが、いつも遅くまで仕事をしているので」
「ネバダ州? あっちは砂漠ばっかりじゃないの。そこでコンピューターの仕事なんて奇妙じゃ……」
「ラスベガスですよ。でも正直、まったく退屈な仕事でね。丸一週間コンピューターのモニターとにらめっこです。観光をする暇もない」
 実は彼が参加していたのはハッカーの世界大会“デフコン”だった。彼が普段の生活について他人に話すとき、その内容はかなり真実に近い。いったん組織に参加したら、初日の第一課から、情報保護の誓約をする引退の日まで、基本的な掟が何度となく繰り返される。すなわち、いつも作り話を持っておくこと。最も効果的に嘘をつくには事実に基づいたものにすること。そして、常にうんざりした口調で質問に答えることだ。
 退屈な仕事だと言えば、他の人がさらに詳しい話を聞こうとすることもないし、話はすぐ別の話題に移る。彼が初めて保安任務を遂行した際は、北アイルランド問題が収束に向かっていた時期だったので、「私は北アイルランドにあった基地を撤収する作業をしています。主にデスクワークで、命令書や送り状、執行状《ディスパッチ》などくだらない雑務ばかりです」と話すよう勧められた。誰が命令を下していたか、誰が送り状を受け取るか、またかわいそうにも|殺害実行《ディスパッチ》されてしまったのは誰だったか、などがその先の会話の中で聞かれることはなかった。
 他の多くのメンバーと同じく、彼はケンブリッジでこの組織に入り、当初は、英雄たちのロマンチックな冒険物語に魅了されていた――アーサー・コノリー、ベイリー大佐、ヤングハズバンドとその仲間たち。誇張された英雄、歴史上の先駆者、ロシアを相手にしたグレート・ゲーム、広大で未知なものへの挑戦、中央アジアの平原と山脈横断の旅、雪原を越えて禁断のチベット僧院へ至る探検。携行するのは最低限の必需品のみ。何週間も本国との連絡はなし、支援者をすぐに呼べるような魔法の合い言葉もなし。
 今日では、組織が「危険地域」と見なしているのはブッドフォードやリーズ、マンチェスターなど北部の都市近郊に住むアジア系コミュニティーだ。たとえ昼間でも直接地上から入るのは怖いので、作戦行動は完全にテクノロジーに頼りきりだ。モスクの入り口に仕掛けた隠しカメラが絶えず遠隔視聴センターに映像を伝え、携帯と固定電話は盗聴、Eメールとウェブサイト閲覧履歴に関する情報は中部イングランドの田舎にある広大なコンピューター処理センターに取り次ぐ。
 全ては遠隔的、自動的、疎外的で、人間の直観や理解は介在しない。昔のロマンスはもはや消え去り、ヤングハズバンドがチベットで経験した神秘的な出来事も、幻想も、精神の覚醒も、はるかなるアルタイルの導きも、ことごとく、現代技術のもたらした効率的手順によって排除されてしまった。
 彼が世界から疎外されていると感じるのは、単に厚かましいアメリカの国家安全保障局のスパイたちのせいでも、また彼らの酒宴や低俗なストリップ劇場通いのせいでもない。あらゆる業務に浸透しているハイテク装置は、敵を切り離すだけではない。あらゆるものを孤立させてしまうのだ。それも完全に。
 彼は自分の部屋の前に着き、ドアを開けてリビングに入る。カーテンを引いて、服を脱ぎ、きちんと畳んでから、ぽつんと置いてある椅子の上に重ねる。そしてキッチンの隅にあるエドワード七世時代風の、上部がドーム型になった幅広のトランクを開けた。丈夫な金属のバンドが縁をぐるっと囲い、側面で十字架を作っている。彼は裸のまま、蓋を持ち上げ、トランクに入る。仰向けになり、両足を胸に抱き寄せ、ほとんど胎児のように、革で縁取られた空間を自分の体で満たす。彼は内側の縁に指を掛けて、蓋を下ろす。トランクは自動ロックの掛け金のカチャッという音とともに閉まる。完全なる闇の中、彼は瞳を閉じて虚無が自分を包み込むのを待ち構える。

【訳者解説】
 ハッシュスリンガーズさんにしては珍しく、静かな雰囲気の超短編。テクノロジーのせいで冒険とは全く縁がなくなったスパイの孤独……。古いトランクに閉じこもる結末も余韻があっていいですね。
 「MI6の本部」と訳した箇所は、原文では"the hanging gardens of Vauxhall, Babylon-on-Thames"となっていますが、今回は(ためしに)脚注を付けないという方針で、わかりにくそうな単語も訳文自体にできる限り説明させるようにしてみました。二〇世紀初め頃のイギリスのスパイたちについても、「文脈的に、二〇世紀初め頃のイギリスのスパイなんだろうなあ」ということさえ分かればいいということにしました。
 というわけで、註はなし。解説も特に必要なさそうですね。
(了)

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