2014年6月5日木曜日

無政府主義者の暗号



無政府主義者の暗号
(http://www.hashslingrz.com/anarchist-code)

ハッシュスリンガーズ著 藤木祥平・木原善彦訳


「目覚めよ、起き上がれ、目標に辿り着くまで立ち止まらず進め」
(サンスクリット語のヒンドゥー教の詩より)

 巨大な赤褐色の壺を頭の上に乗せていたり、ぶらぶらと散歩をしたりしている女のポーターたち、バニヤンの木の下で休む者たち、まるで溶けた蝋のように垂れ下がる枝。それらのかたわらを歩きながら、パーシヴァル・ヘッド=ウッドはこの暑さには耐えられないと感じていた。モンスーン前のこの夏の暑さはやっぱり、地元の連中にとっても、あるいはバニヤンの木にとっても耐えきれないものなのだろうか。パーシーは空想から自分を引き戻した。本当にうだるような暑さだが、国王と祖国のための任務へと取りかかろう。集中しなければ。
 パーシーの家族はずっと大英帝国に仕えてきた。しかし生まれつきの脚の神経損傷と重度の吃音のせいで、彼自身はその恩恵にあずかることができなかった。パーシーは自分が、西部戦線の胸壁の上で軍を率いるような英雄になれないことは承知していた。それどころか彼は、毛穴という毛穴から汗をかきながらここマドラスに駐在している、ただの副総監だ。それでも実際、警察の仕事はパーシーに向いていた。彼は抜け目のない分析的性格の持ち主で、几帳面で仕事もよくできる人物だった。細かい事柄には細心の注意を払う性分だ。戦争が終わって英国へ戻れば、コンラッドの小説に登場するテロリストや無政府主義を嗅ぎ回るヒート警部のように、ロンドン警視庁でポストにつくことができるだろう。そのためには、ここで自分の優秀さを示すことができれば十分だ。
 すでに彼は警官としての直感でもって、おそらくは無政府主義者の爆弾魔が関与する陰謀の可能性に感づいていた。パーシーはアマチュア無線が好きで、暗号化されたメッセージを収集し始めていた。最初は一重転置式で暗号化されていて、わかりやすい元の平文が単に並び替えられるだけだった。解読すると、メッセージには一見なんら犯罪性は見られない。世界各地で行われる石油貿易の話だ。アメリカ、日本、トルコ、ペルシア、メソポタミア――世界中のほとんど至る所で。しかしながら、メッセージのやりとりの後には必ず言及された地域で重大な事件――イギリス軍のクートでの降伏、ニュージャージー港での爆発、東南アフリカでのドイツ軍の勝利、ロシアでのボリシェヴィキの革命――が発生する。パーシーはこのことを偶然とは考えなかった。しかし一体誰が指示しているのだろう? ロシア帝国、同盟国、連合国――皆、敗者だ。同時に、世界中で独立運動が起きつつもある――アイルランド、チェコ、アゼルバイジャン、シク教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒。未知の脅威が世界中の帝国に支配される民に代わって戦争を画策したとでも言うのか。
 最近は傍受する暗号がより複雑になった――二重、三重、あるいは不規則転置式と言った具合に。途中まではまだ解読できるが、一重の並び替えからさらにスクランブルされているのだ。たまに解読に成功することもあった。Aは出現頻度が高く、Zはほとんどないので、解読はいわば文字の頻度を鍵にしたパズルだ。でも、Xとは何だ? ひょっとしてメキシコのことか?
 そして最近、またアルゴリズムが変更された。おそらく換字式暗号だが、文字出現頻度を隠蔽するためのごまかしの暗号だろうか? ただの数字の羅列のようだが、それぞれの数字が特定の語にマッピングできるのか? 暗号化されたテキストが十分にあれば、使用頻度の高い単語や文法規則は明らかになる。しかしパーシーはもう解読どころか、言語を特定することさえできなかった。そこにあるのはただの数字で、彼の処理能力を超えていた。しかし追跡すべき手がかりが一つあった――多くの無線電波の信号はとても強かったので、どこか近くから来ているにちがいなかった。彼は無線受信機を持って電車に乗り、信号を三角法で測定して、ここマドラスの大学キャンパスを突き止めていた。これは世界秩序を転覆させようと企むインドの反乱、謀反なのか? しかも、それがパーシーの管轄内にあるこの場所で計画されている? となれば今こそ力を発揮し、世紀の大事件を解決し、英雄となって世界を救うチャンスだ。
 このような変わった暗号をつくり出すには数学的技術が必須だ。パーシーは数学科の短期複式簿記講座を履修して潜入捜査を始めることに決めた。格好の口実だ。しかし、事は慎重に進めなければならない――もしも陰謀者に自分が警察だとバレたら、間違いなく命が危険にさらされる。
 バニヤンの並木に沿ってぶらぶらと歩き続け、パーシーはようやく大学、そして学生が履修登録待ちをしているホールへと辿り着いた。それはイギリスのインド支配を確立したベンガル総督クライヴの息子が建設したホールで、高く白い柱の上に誇らしげに立っていた。帝国の力を祀ったギリシャ風の神殿といったところである。こんな場所からジョージ英国王に対して反乱を企てるなんて、いったいどんなネズミ野郎だろう?
 インド人とイギリス人の学生が登録待ちで小さな列をつくっていた。「こ、ここ、こんにちは、ぶぶ、ぼくはパ、パ、パーシー・ヘ、ヘッド=ウッド。か、か、会計学をまな、学びにきたんですけど」パーシーは吃《ども》った。
 「いらっしゃいませ。のどが渇いているようですね。職員が来るまでの間、どうぞホールでご自由にお食事やお飲み物をお召し上がりください」
 歩いていくと、パーシーは豪勢なごちそうを見つけた。中でも一つの料理が特別食欲をそそる。甘い香りを放つシロップに浸かった、つやがあって赤茶けた団子状の食べ物。一つ食べてみる。とびきり上等ですばらしいではないか。ここしばらく警察の食堂で、胃もたれするケジャリーばかり食べていたが、インド料理にこんなにおいしいものがあると前から知っていたなら……。彼は一つ、また一つと食べていった。
 礼儀正しいインド人の事務員が近づいてきた。「お待たせして申し訳ありません。職員は間もなく来ますので。デザートを楽しんでおられるようですね。インドではこれはジャムンの木の果実に似ていることからグラブジャムンと呼ばれています。作り方は、まず牛乳をペースト状のとろみが出るまで――コヤと呼ばれる状態になるまで――コトコト煮詰めて、次に小麦粉とカルダモンのスパイスを加えます。混ぜ合わせたら団子状にして大桶一杯の溶かしたバターで揚げるんです。最後に揚がった生地をローズの香りの蜂蜜やサフランのシロップでコーティングしてやります。これまで味わった中でいちばんおいしいデザートだとお思いになりませんか?」
 事務員が一皿勧めると、パーシーはまた一つ取らずにはいられなかった。「と、と、とてもおいしいです」。パーシーは、膨張する腹の中にまた一つ蜜の味の歓喜が消えていくや否や、わずかによだれを垂らしながらベルトのバックルを一穴分緩めた。
 「どうぞもっと召し上がってください。まだ生徒もそろっていませんし職員もまだ来ませんから」。事務員はパーシーにまた一皿手渡した。
 彼はもうなぜここへ来たのかもほとんど忘れていた。ああ、うん、いいじゃないか、あともう一つだけ…。そしてローズの香る球体を口に放り込み、ネバネバしたシロップが極上の蜂蜜のように彼の口の中を満たす。
 事務員はふらっと教授陣の方へと退いていった。「警察だ。もし何か聞かれたら殺せ」。眼鏡を掛けた学生のそばを通るとき、彼はそう囁いた。

【訳者解説】
 イギリスからインドに来た警察官が、暗号メッセージを手掛かりにテロ組織を探る。そして、ある大学に潜入しようとするが、すぐに正体を見抜かれる。というスリリングな話です。
 では、なぜ正体がばれたか? 
 グラブジャムンの食べ過ぎ、というのが答え。「警察の食堂のインド料理がまずい」ということですから、インド料理を(いつもと違う感じで)おいしそうに食べるのは警官とばれてしまうのですね。あるいは、警察の食堂ではグラブジャムンを出しておらず、それを知っているテロリストたちはグラブジャムンをおいしそうに食べる人物を警官だと見分けているか。残念ながらそこのところがあまりはっきりしません。グラブジャムンはなんでも「世界一甘いスイーツ」らしいので、まあ、次々に食べる人物は怪しいですね、とりあえず。想像するだけで歯が痛くなりそうですが、食べてみたい。
 今回の短編は暗号についてのうんちくがすごい。転置式暗号とか、頻度分析とか、暗号理論とか、ウィキペディアで勉強するのは楽しそうです。
 暗号と言えば、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』に影響を与えたかもしれない、ハリー・マシューズ(Harry Mathews)のThe Conversions (1962) という作品があって、途中、言葉は英語みたいだけれど全然意味が分からない部分があるのですが、そこは実はすごく有名な方法で暗号化されているのだそうです。暗号好きな方はぜひご一読あれ。
 ついでに、「アメリカ文学 暗号」で検索するとトップにヒットするのは多分、マシューズではなくて、ピンチョンでもなくて、ポーの「黄金虫」だと思います。「黄金虫」で思い出すのは、リチャード・パワーズのGoldbug Variations。翻訳の進行具合はどうなっているのか、興味はあれど、関係者には尋ねづらくて尋ねていません……。
(了)


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