2014年6月12日木曜日

血と羽



血と羽
(http://www.hashslingrz.com/blood-and-feathers)

ハッシュスリンガーズ著 佐野知足・木原善彦訳

 シェネガ表現療法センターはロサンジェルスとパームデールを結ぶ幹線道路から数マイル離れた小さな丸太小屋にあった。傍には湧水からできた泉があり、庭を鴨と雁《がん》がのびのびと歩き回る様子は温かい農家の雰囲気を感じさせ、砂漠と雑木が広がるキャニオン街道にとっては小さな緑のオアシスであった。  
 今日、アシュリン・ギアズは前向きな気持ちでそこへ来た。彼女は最初、演技療法を受けるつもりだったが、本職にあまりに近すぎたために、結局落ちついたのが記述表現療法だった。アシュリンは初診で、この療法が激しいもので感情を消耗しやすいと警告を受けた。しかし、たちまち彼女が感じたのは自由と解放感、それに悩みが晴れ、消え去ってしまう感覚だった。ジャックシェッツ医師は彼女の世界のすべてを変えた。魔法の治療、いや、人生の錬金薬。何であれ彼女は六回分の治療費を払い、治療は残すところあと二回だった。
 ジャックシェッツ医師は受付にいたアシュリンを診察室に招き入れた。今日の医師は普段より険しい表情をしていた。銀のもつれ髪にジーンズ、へそのあたりでボタンを留めたアロハシャツというカジュアルな姿だったが、彼の眉間には深いしわが寄っていた。
 「ギアズさん、記述表現療法とは患者が過去のトラウマや自らの非常に個人的な考えや感情について書くことです。しかしあなたの最初の挑戦は、遺伝子操作されたモンスターが登場する凶悪な終末的ストーリーであり、あなたの過去とは何ら関わりがないものでした。さらに言えば、感情的要素は全くもって表面的でした。絶叫、暴力、さらなる暴力、最後は突然、衝動的かつ不可解で制御不能な性的欲求といったふうに」
 「私は驚くべき人生をおくってきたのです、ジャックシェッツ先生。その話には、先生が想像する最も狂った夢よりもっと凄い個人的トラウマが含まれていますわ」。アシュリンは最大限の無垢な笑みを医師に向けた。  
 「その話は後でしましょう。あなたの二回目の挑戦は、始まりはよかった。夫の浮気を発見した際のあなたの感情面での反応は正直かつ率直でした。ひょっとするとあなたの心の奥底が一瞬本当に垣間見えたのかもしれない。しかしあなたはすぐに主題から逸れ、アカプルコでの休暇について話しだす。そしてここからあなたの話は、でたらめな性的体験の目録へと劣化していくのです。女友達とのレズビアン行為、またその友達の彼氏とのアナルセックスやオーラルセックスによる乱交パーティーでの絶頂、ひいては男性パートナーが達するまでスパンキングする女王様の役目をあなたが引き受けたSMプレイなど、刺激的な読み物だと思ったことは認めます。しかし、そこにはあなたの根本的な感情についての記述がほとんどなかったのです、ギアズさん」
 「けど、記述療法は役に立っていますわ、ジャックシェッツ先生。それに何より、天職が見つかりました。私は作家になれます。自信があります。もちろん性格描写、会話、視点などの細かな点を習得するには少し時間がかかるかもしれませんが……だけどそんなことは単に小手先の問題です。良いプロットさえあれば、あとはどうってことありません」
 「私は治療の末にあなたが辿りつく結果を心配しているのです、ギアズさん。そこで今日は、ちょっと新しいものに挑戦してみたいのです。あなたの精神を悩ます深層心理に深く眠る問題を一緒に解放しましょう。仰向けにこの寝椅子に腰掛けて、頭を空っぽにしてください」
 ジャックシェッツ医師はベランダに出るドアに向かった。外では彼の息子が楽しそうに三輪車で駆け回っている。ドアを開けると雌鶏が医師に優しく"バック……バック …ブルック…ブルーック"と挨拶し、部屋に上り込んで、医師の足下をつついた。ジャックシェッツ医師は机からトウモロコシの粒が入った袋を取り出すと、床と寝椅子、さらにはアシュリンの腹の上にもそれをばら撒いた。
 「今日のこの治療は熱心な飼鳥家であり、精神医療の分野における表現療法の先駆者でもある、アメリカ精神医学の父、ベンジャミン・ラッシュの研究ノートに記された実験に基づいています。私たちは鶏という媒体を通してあなたの精神を探っていきます」
 二羽の雌鶏は切られた翼を猛々しく羽ばたかせると、放物線を描いてアシュリンの腹の上に乗っかった。二羽の鶏は怖がるというより、むしろ熱心にアシュリンをじっと見つめ、じりじりと詰め寄ってくる。その様子は頭部を常にジャイロスコープみたいに水平に保つジュラッシクパークに出てくるヴェロキラプトル に似ていなくもなかった。二羽は立ち止まると、アシュリンの胸の谷間からトウモロコシの粒を啄ばんだ。
 「それでは集中してください。あなたは今、鶏です。鶏の目で、寝椅子に横たわるあなたを見てください。何が見えますか、ギアズさん」
 「不安げな女性が見えます」
 「いい感じです。あなたはなぜ不安なのでしょう」
 「このDKNYのシルクの服の上に鶏が糞をしないか不安なのです。これは自宅では洗濯できませんから」
 「急ぎすぎましたね。もう一度やり直しましょう。ご存知のように、鶏たちはお互いをくちばしでつつき合って明確な序列を決め、それに従っています。一度序列が作られると、争いはほとんどありません。しかし新参者がそこに入っていくのは難しい。人生とはタフなものなのです。物書きの世界にも、すでに有力な鶏たちがいるのです、ギアズさん。それはポストモダン文学の巨匠かもしれない、熟練の女性作家か、ジャーナリスト、推理小説作家、一般人の物書きかもしれない。彼らは凡庸だが、多産です。だけど私が思うに、ギアズさん、物書きという点において、あなたは年増の、卵を産まない雌鳥なのです。あなたは彼らに徹底的につつかれ、排出腔の羽をむしりとられ、裸にされ、血を流すことになるでしょう。あなたの文学における素人的挑戦は序列の最下位に位置します。その一方で、あなたはまだ空想世界に生き、自分が作家になれるのだと信じている。そして、精神に取りついた感情や過去を押さえ込み、埋没させようとしているのです」
 アシュリンは突然混乱してきた。ジャックシェッツは単なる気の狂ったやぶ医者じゃないのかしら。少し前まではジャックシェッツ医師が自分にしてくれたことすべてにアシュリンは感謝したいと思っていた。だが今、自分はここに横たわり、新しい洋服はトウモロコシの粒と鶏の糞まみれで、ジャックシェッツ医師から侮辱を受けている。それとも、彼はみせかけのアシュリンの奥底にある真実を暴いているのか。
 突然の衝突音で治療が遮られた。ジャックシェッツ医師の息子が庭のガラス扉に頭から突っ込んだのだ。それに驚いた鶏は前のめりになってアシュリンの鼻を鋭く突いた。すると傷から流れ出した血が彼女の顔をつたい、羽毛と相まって、光沢《グロス》のある唇にべったりと付いた。アシュリンが飛び起き、雌鶏が飛びのいた。
 「いいですか、先生。私は低俗な女優でした。お粗末なB級映画やポルノにも出た。恥だとは思わなかった。お給料はよかったし、楽しかった。何も気にしてないわ、ジャックシェッツ先生。だけど、私は業界のタブーは守ってきた。“子供や動物と仕事をするのはご法度”ってね」

【訳者解説】
 偉大なる喜劇役者W.C.フィールズ(ピンチョン『重力の虹』に言及あり)は「子供や動物と仕事をするのはご法度(Never work with children and animals)」という名言を残したとされています(もちろん、子供や動物は思ったように動いてくれないから、というのがその理由です)。その言葉を軸に書かれた短編です。
 アシュリン・ギアズは実在の女優であるアシュリン・ギアに基づいて造形された人物で、いわゆるB級映画に多く出演した人です。ですから結末は、「そんな私でも子供や動物との共演は断ってきた。なのに、先生ときたら、仕事の最中に庭で子供を遊ばせたり、動物を使って治療をしたりして、どういうつもり?」というオチになっています。オチをくどくどと説明するのは訳者として失格な気がしますが、上の訳でそれが伝わる自信があまりないので念のため。というのも、「子供や動物と仕事をするのはご法度」とか鶏の「つつきの順位(pecking order)」とか、英語ではわりと認知されている表現が、日本語では(多分)あまり定着していないので、そのまま訳すとぎこちない。でも、註を付けるのはまた別の意味でぎこちない。だから、少し言葉を足したりして該当部分を処理したのですが、ピタッと決まっているとは言い難いですね。

(了)

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