2013年9月20日金曜日

春の最初の日




ハッシュスリンガーズ・ドット・コム著 木原善彦訳

春の最初の日

 凍てつくような北東風が吹き、桜の花びらがキングズビア牧師館の窓の外に舞う。春が突然歩みを止め、意地の悪い冬がまた戻ってきた。ティモシー・ハーディ牧師は午前九時の天気予報をチェックしようとテレビを点けながら、今年のサクランボは駄目だろうなと考えた。
 イギリス人の大半は、毎日天気予報を見る――それが単に、その日一日、出会う人との避けがたい会話のネタを集めるだけのためだとしても。しかし、ハーディ牧師が日々儀式のように九時の天気予報をチェックするのには隠れた動機があった。BBCの予報をまめに見ている人なら、地図に表示される町がしばしば変わることに気付くかもしれない。しかし、予報地図にキングズビアが現れることの本当の意味を理解しているのは、ハーディ牧師をはじめとする一握りのMI6のエージェントだけだ。
 今日は地図に、南下する雪の記号とともにキングズビアが表示された。ハーディ牧師はその意味と指示をはっきりと理解した。昼までに列車でヒースロー空港へ行き、飛行機でスーダンの首都ハルツームへ、そこから列車でダルフールの州都ニヤラに向かい、少しだけタクシーに乗ってバプテスト派の伝道本部へ。その後、素早く目立たぬように|拷問犠牲者治療施設《アメル・センター》にあるCIA専用室に出向き、テロ容疑者に尋問。
 ハーディ牧師はこのルーティーンについて良心の呵責を覚えたことはない。海外で活動するキリスト教伝道団と諜報機関は何十年も前から深い付き合いがある。人道支援活動、愛の教義、テロと核拡散を防ぐ作戦活動。そのどれもが、|平和の礎《エルサレム》を築くという使命の一環だ。緑豊かで快適なイギリスという土地だけにその建設を限定する理由はない。
 二階に鞄を取りに行ったハーディは、館に向かって大股で歩いてくるドロシー・ブレイクの姿を見つけて密かに溜め息をついた。さっさと済ませなければ。ドロシーは三年前にこの土地にやって来たときから、彼にとってこの上なくありがたい存在だった。実質的にこの教会を切り盛りし、生け花を入れ替え、日曜の聖書朗読の輪番を決めているのは彼女だ。彼女が作るおいしい焼き菓子の屋台がなかったら、夏の慈善バザーはどうなるだろう。あれがなければ誰もバザー会場に足を運ばないのではないか。でも、彼女は時に話が長い。今はそんなことをしている場合ではない。彼は呼び鈴を鳴らされる前に玄関を開けた。
 「あら、ティム。朝早くからすみません。昨日ビンゴゲームのために作ったアーモンドスポンジケーキが少し余ったから、お裾分けしようと思って」
 「それはぜひ――今ここで一切れいただこう。ちょっと急いでいるので。ニヤラの|伝道団《ミッション》に行かなくちゃならない。飛行機に、急に空席ができたらしくて。おかげでチケットはバーゲンプライスだ。新しく作っている児童養護施設がどこまでできたか、確かめようと思ってね」と彼は口にケーキをほおばったまま言う。
 「|伝道団《ミッション》。牧師様にとって大事な|任務《ミッション》ですものね」
 「おいしいね、これ!」
 「ジョイスの店のラズベリージャムで作りました。今日はなんだか、春の空気が漂ってますよね。この後はまた、桜のカップケーキでも作ろうかと思います。召し上がっていただけないのは残念だけど」
 “春の空気”――なぜ妙なことを言うのか。凍えるような寒さだし、予報でもにわか雪があると言っていたのに。「楽観的なのはいいけれど、予報によるとまた雪の季節に逆戻りだそうだよ」
 「そう。もうすぐ春です、ティム。世界中に春が来る。新聞は“アラブの春”で持ちきりでしょう?」
 これもまた妙。今までにドロシーが話で触れたことのある情報源は、イングランド国教会が月に一度刊行している雑誌だけだった。
 「ドロシー、君が政治に興味を持っているとは知らなかった。ひょっとしてこっそりデイリー・テレグラフ紙でも読んでいるのかな?」
 「誰にだってちょっとした秘密がありますよ、ティム。私の名字のブレイクだってそうです。うちの家族は本当はアゼルバイジャンの出身で、父が移民の際に姓を変えたんです」
 「そうか。君はウェセックス地方の出身だとばかり思っていた。君が作るお菓子だってアップルケーキとか、ブラックベリークランブルとか、ドーセットノブとか……」。牧師の意識が遠のく。目の前で巨大なスポンジケーキが広い野原を漂い、頭がひどく混乱した。
 ドロシーが笑った。「伝統的な焼き菓子です。私のお気に入り。父もこれが趣味でした。他にもいろいろな料理の秘訣を教えてくれましたよ。ワイルドチェリーの種からシアン化物を抽出する方法も、その味をごまかすためにスポンジをアーモンド風味にすることも。今年の春は南からやって来るみたいですね、ティモシー。あなたがそれを目にできないのは本当に残念」

(http://www.hashslingrz.com/first-day-spring)

【訳者解説】
 hashslingrz.com は、トマス・ピンチョンの新作『ブリーディング・エッジ』(以下、『BE』と略記)刊行に合わせて作られたサイトで、作者不詳のショートショートが掲載されています。どれもピンチョン風の味わいがあり、面白いものに仕上がっています。改編・転載などに関するクリエイティブコモンズのライセンス条件が、著作者表示、非商用、条件継承ということで、本人にも日本語訳掲載を了承してもらいました。
 ルビを振りたい部分は、HTMLのルビだと環境次第で変な見え方をするので、データの使い回しがしやすいよう、青空文庫書式(例、「薔薇《ばら》、区切りが分かりにくいものは「|偏執病的《パラノイアック》」)にしています。
 ひとまず、あまり説明が必要ない短編をご紹介します。

・「春の最初の日」(九月五日公開)について
 『BE』は「二〇〇一年春の初日」という言葉で始まる(一頁)。短編タイトル「春の最初の日」はそこから取られたもの。内容は『BE』とは無関係。
 話の展開は他の作家が書いたショートショートにもありそうだが、キリスト教の伝道と諜報機関の結び付きを指摘するところ、アラブの春に言及する同時代性、スーダンの地理の具体性、シアン化物がワイルドチェリーの種から抽出できるという知る人ぞ知る化学的事実への言及などにピンチョンっぽさがうかがえる。注釈は不要かもしれないが、MI6は米国のCIAに相当する英国の諜報組織。アメル・センターという施設はスーダンに実在する。
 人名や地名にちょっとした文学的お遊びが加えられている。ウェセックスは英国の小説家・詩人の、ティモシー・ハーディならぬトマス・ハーディ(一八四〇-一九二八)が小説の舞台として描いた土地で、キングズベアもハーディの小説『テス』などに登場する架空の町。英国の詩人ウィリアム・ブレイク(一七五七-一八二七)の作品には大作『エルサレム』(一八二〇)、詩「春」などがあるが、ここではむしろ、ロンドンに実在する焼き菓子店「ブレイクのケーキ屋(Blake's Cakes)」が意識されているかもしれない。「ジョイス」もあのジェイムズ・ジョイスかも。
 ちなみに作中で言及のある「ドーセットノブ」は、ドーセット地方名物の、ドアノブほどの大きさのある乾パンみたいな食べ物。
(了)

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