ハッシュスリンガーズ・ドット・コム著 木原善彦訳
車輪の付いたアルミが襲う
新しい|千年期《ミレニアム》は高揚とともにやって来た。オーストラリアの工業技術マーケットは好況。株価は天井知らず。しかし、シドニーの|車両設計研究所《VDRL》は投資家の資本をすっかり使い果たし、好機をまったく生かせない。VDRLで働いていた最後の見習い、ジュリーナ・ガネッサは閉鎖的な研究環境に不満を持ち、何もかもパブリックドメインにさらすと捨て台詞を残してデータを全部持ち出してしまった。
幸い、研究所には事態を好転させるささやかな可能性が一つだけ残されていた。ビクトリア州政府と先日結んだ契約に基づき、最近街で流行のアルミ製キックボードについてその安全性を検証するという仕事だ。必要なのは残された|わずかな資金《チキン・フィード》で仕事をやってくれる人物だけ。というわけで、フローとイーディスが面接に訪れたとき、このふたりにしては珍しく門前払いを食わされることはなかった。そんなはした金で生活していけるのは彼女らくらいだろう――なぜならフローとイーディスは、人付き合いにうんざりして田舎で暮らしている高学歴男の手によって言語学と物理学を教え込まれた鶏だったから。養鶏業を営むラクランは、妻がクロコダイルハンターと駆け落ちした後、鶏舎に長い時間入り浸り、長年すぐそばで観察した結果、鶏が想像よりはるかに頭がいいことを発見したのだった。
「じゃあ、キックボードの安定性に関する動力学を分析すればいいわけですね」とフローが復唱した。「朝飯前です」とイーディス。「他の二輪車両を扱った先行研究から外挿的に推定するだけ。比較と対照。安定性、操縦性、頑健性。どれも既に確立された計算です」
ふたりは新たな雇い主になんとか気に入ってもらおうと、翌日すぐに仕事に取り掛かった。重心の計算、ハンドル角の計測、内輪差。
いつも実験重視のフローはマウンテンバイク、BMX用自転車、そして最新モデルのレーザー社製折り畳みキックボードに乗る人々のビデオを検証し始めた。経験主義的分析の確かさを堅く信じる彼女は、キックボードはどの二輪車両にも劣らぬ安定性と操縦性を備えていると確信するにいたった。
しかし、イーディスは理論的な側面にこだわった。どんな計算をしても予想は一致した。角運動量は極小、メカニカルトレイルもゼロ。そしてその結果、情けないほど低い値の臨界速度を超えた途端に必ず生じる自然発生的振動。イーディスは、こりゃ全然駄目だと思った。
「ねえ、イーディス。このキックボード、楽しそうよ。ちょっと試しに乗ってみない?」
「フロー。いくらあなたに翼があったって、前輪のぶれを無視はできないでしょう? 危険なおもちゃよ」
「ご託はいいから、イーディス。理屈ばかり言うあなたのその、上から目線にはうんざり。あたしならこんなもの、目をつぶってたって乗れる」。フローはそう言ってキックボードに飛び乗り、ビクトリア州交通局に向かう坂を一気に下り始めた。
安定性に関してはフローの意見が正しかったかもしれない。次の交差点に達した頃には速度が時速二十キロまで上がり、矢のように走っていた。しかし、至福の瞬間はまた、後輪のブレーキがいかにお粗末かを知るのと同時だった。後輪はロックし、|三前趾《さんぜんし》型の足が滑らかなアルミ板の上を滑り、フローは通りに投げ出された。羽毛が宙に舞い、アルミはそのまま坂の下へ。
ガン! キックボードは警官の左すねに衝突。骨が見えそうなところまで、肉が切れる。フローは慌ててとんずら。ピート・ライアン警視が立ち上がり、手帳をめくった。「さて、イーディス。改めて、最初から聞くぞ。君はこれが友人のキックボードだと認めるんだな。では次に、もう一度証言してもらおうか。どうしてその鶏は道を渡ったんだ?」
(http://www.hashslingrz.com/ambush-rolling-aluminium)
【訳者解説】(ルビの書式は青空文庫形式)
ピンチョン『ブリーディング・エッジ』冒頭に近い部分(二頁)に、ニューヨークの街中でキックボードに乗る子供が増えて危険だという話が出てきて、そこで「車輪の付いたアルミによる奇襲」という、いかにもピンチョンらしい奇妙なフレーズが用いられている。この短編のタイトルはそれをそのまま用いているが、内容は『BE』とは無関係。長編に登場する印象的なフレーズを一つのお題としてスピンオフ短編を作ったという、いわば大喜利的なサービスだ。
この短編では、「鶏が道を渡ったのはどうしてか?」「反対側に行きたかったから」という定番の謎々が下敷きに使われている。日本で「パンはパンでも食べられないパンは?」「フライパン」という謎々を知らない人がいないのと同様に、英米ではこのネタを知らない人はいない。ここではそれにバリエーションが加えられている。「反対側に行きたかったから」という答えは当たり前すぎるせいで笑えるが、「キックボードの安全性を確かめたかったから」という答えは逆に、鶏にしては突飛すぎて笑える。加えて、「|わずかな資金《チキン・フィード》」という口語表現が本物の鶏《チキン》の登場を招くのも分かりやすいギャグ。訳文中、「こりゃ全然駄目だ」と訳したイーディスの言葉は、原文で "this bird just wasn't going to fly" つまり「この鳥は飛びそうにない」の意。これは「代物、変なもの」の意味で用いられたbirdという単語を使った言葉遊び。もちろん、その言葉遊びをしているのは鶏だから、二重に面白い。
他方で、「警察官(copper)」「警視(superintendent)」「田舎(outback)」といった語彙の選択には、米国英語と異なる豪州英語に対する作者の意識が明確に見られる。「三前趾型」とは鳥の足に関して、「第一指が後ろ向きに、残り三本の指が前向きになっている」のを意味する言葉。「メカニカルトレイル」とは二輪車の操縦軸と前輪タイヤ接地点の距離を表す工学的な専門用語。一般に、メカニカルトレイルがゼロに近いと走行安定性が低くなる。冗談めいた短編にこうした専門的な術語を混ぜるのもピンチョンっぽい。研究所名の略号VDRLは通常、「性病研究所」を表すので、これもピンチョンっぽい下ネタ。
研究所のファイルを持ち逃げし、それを公表すると脅す人物はジュリーナ・ガネッサ(Julina Ganessa)という変わった名で、ヒンズー教の神ガネーシャを連想させて思わせぶりだが、綴りを少し並べ替えるとジュリアン・アサンジ(Julian Assange)となる。言うまでもなく、ウィキリークスの創始者だ。彼はオーストラリア人。
鶏のフローとイーディスは、ミュージシャンのフランク・ザッパ(一九四〇-九三)と一緒に仕事をした元タートルズのフローとエディを念頭に置いた命名か。
(了)
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