ハッシュスリンガーズ・ドット・コム著 木原善彦訳
宿題の出る精神病院
明るいけれどまったく暖かくない冬の太陽が隣家の屋根の向こうに沈もうとする頃、フルトン爺さんがストーブの薪に火を点けようと立ち上がった。孫のジョー・フルトンは爺さんに聞こえない声で「畜生」とつぶやきながら、次の宿題の山に取り掛かる。
「今日の宿題もまた大変そうだなあ、ジョー。何か、この爺ちゃんに手伝えることがあるかい?」
「あるかも、お爺ちゃん。今回は歴史のレポートがあるんだ。コロンブスとかマゼランみたいな冒険家がどんなふうに船の位置を確かめ、針路を決めたか。お爺ちゃん昔、海軍にいたんだよね。船長さんは船が今いる場所をどうやって知るの?」
爺さんはマッチを擦って火口《ほくち》に火を点け、炎が上がるのを見てから肘掛け椅子にゆったりと腰掛けた。
「うん、坊や。コロンブスは大海原で、推測航法というものを使ったんだ。船首に木切れを落として、それが船尾に達するまでの時間で速度を測る。そして針路は羅針盤で確認。一時間ごとにそのデータを航海日誌に記録する。でも、問題が一つある。空間の中で自分がいる位置を確認するには、まず時間の中での位置を確かめなければならん。緯度は簡単だが、経度を確認するには|経線儀《クロノメーター》という精密な時計が必要だ。だから彼は結局、キューバに辿り着いたとき、そこをインドと勘違いした」
「原子力潜水艦で機関兵曹長をしとったわしみたいな人間にとって、艦の位置はもっと謎さ。初めてノーチラス号に乗ったときは、高圧送気管のメンテナンスがわしの仕事だった。航海《ナビゲーション》はもっぱら、航海士と艦長の仕事だ。艦にはトップシークレットの新型スペリー=ランド式ジャイロコンパスが備えられ、生まれたての赤ん坊みたいに大事に扱われておった。トランジスター回路と三次元姿勢保持ジャイロ。その回転するコマは地球に対してじゃなく、星に対して定位する。空気がベアリングに使われているから、いわば、コマは完全に母なる地球から切り離されているわけだ。ドイツのロケット研究が生んだ究極の製品のおかげで、艦は水温躍層のはるか下に潜っていられる。エイハブが追う鯨以外にはわしらの姿は決して見えない」
「それが特殊任務だということはすぐに分かった。艦長と航海士がいつも交代で慣性航行装置室に入り、鍵を掛けて閉じこもっていた。水深が浅いときは、海底のテッポウエビの動きにドップラー効果が見て取れるから、速度の見当がつく。磁石を使ったコンパスは鋼鉄製の船体内では使い物にならん。だが、海軍生活の長い一等兵なら船体の温度でおおよその緯度を言い当てられた。誤差は二度ほどでな。全速力で二週間ほど進んだ後、ようやく乗組員は知った。ノーチラス号が氷の下、北極点に向かっているのを。当時の極氷は分厚かったんだぞ。だから艦は海面に出られなかった」
「コックがだんだんと正気を失った。出すものは凍土《ツンドラ》チャウダー、白海豚《ベルーガ》ボロネーゼ、北極星《ポラリス》パストラミなんて料理。盛りつけも、田舎の|安食堂《ハッシュスリンガー》みたい。艦の食堂には「ジンバル・ロック」や「特異点」というささやきが谺《こだま》していた。そしてある日、コックが肉切り包丁を航海士の喉に突きつけるという事件が起きた」
「航海士はいたって冷静に包丁を押しのけた。『私は|四元数《しげんすう》を使っている』。彼はただそう言って、ベーリング海《シー》ソーセージを手に、慣性航行装置室にまた閉じこもった」
「艦長もおびえていた。しょっちゅうインターコムでオーネット・コールマンに怒鳴り散らした。フレディ・ハバードは何日も鶏みたいにギャーギャー不満を垂れてた。水兵たちは波もないのに|くらくら《ディジー》すると船酔いを訴えた。事態はさらに悪化して、ついにいきなり、みんなの体が宙に投げ出され、船体に打ちつけられた。そして赤ん坊が水栓に吸い込まれるみたいに、ブリキの亀が反時計回りに回転しだした。つまりそこが北極点。特異点さ。原子力エンジンなんて無力。艦は事象の地平面に呑み込まれていった」
「わしらはそれから、地球の中心を通り抜けた。海流を見つけてそれに乗るのに何か月もかかった。未知の経路を使って地上に戻るとそこは、誰も見たことがないような荒海だ。近くの島の人間はそこを“|肉切り台《シャンブルズ》”と呼んどった。これがまた妙な連中でな。迷信のせいで“ウサギ”という言葉は決して口に出さない。自分らのことは“ポートランド人”と名乗っていた。まあ、そんなことはどうでもいい。わしらはとにかく地上に戻った。乗員全員に箝口令《かんこうれい》が敷かれた。とはいえ、わしが聞いた話ではあれ以来、潜水艦を使って地球の中心に秘密基地を建設する作業が進んどるらしい」
普段の昼寝のタイミングを逃した爺さんはここで毛布を引き寄せ、まどろみだした。ジョーは必死に、まだ頭に残っている話をレポートに書き始めた。これでさすがに今回は、校長から両親に電話がかかってくることはないだろう――アスペルガーとか|注意欠陥多動障害《ADHD》とかコソコソささやくのが聞こえる電話。まるで少年にはそれが聞こえないと思っているかのように。
これもハッシュスリンガーズ掲載の超短編。トマス・ピンチョンの小説に出て来る小ネタをうまく取り込みつつ、とぼけた語り口も面白い。超短編と言うにはあまりにも凝っているし、著者のにじみ出る知識が印象的です。
・「宿題の出る精神病院」(九月七日公開)について
ピンチョンの『ブリーディング・エッジ』で主人公マクシーンの子供二人はクーゲルブリッツ小学校に通っている。ちなみに「クーゲルブリッツ」はドイツ語で球電の意味なので、この言葉で『逆光』を思い出すピンチョン読者も多いはず。小学校創設には、フロイトに破門された後、アメリカに渡った変わり者の精神分析医が関わっていて、彼の奇説に基づいてカリキュラムが作られているため、語り手はこの小学校を「宿題の出る精神病院」と呼んでいる(三頁)。それがこの短編のタイトル。
「ジンバル・ロック」とは、三次元で航行する航空機や宇宙船で起こりうるトラブル。慣性航法システムのジャイロスコープにはコマのような回転体(ジンバル)が軸をずらす形で三つ用いられているが、船体・機体の回転によって三つのうち二つの軸が同一平面上に揃うと、方向や姿勢が分からなくなる。その状態がジンバル・ロックと呼ばれる(映画『アポロ13』にも、宇宙船が危うくその状態に陥りそうになる場面が描かれている)。ジンバル・ロックを防ぐのに使われる方法の一つが四つ目の数値を導入する「四元数」で、この数学的概念はピンチョンの最長作品『逆光』で重要な要素として登場する。「私は四元数を使っている」と訳した部分は、原文を直訳すると「私は四元数を使って料理している」となる。「四元数(quaternion)」は語尾の響きが「タマネギ(onion)」に似ているので、作家がそれを利用して一種の言葉遊びをしているのだろう。地球の中が空洞になっていて、南北の極点からそこに入ることができるという地球空洞説はピンチョンの作品で何度も使われている。また、経度の正確な計測のために|経線儀《クロノメーター》が用いられるというのはピンチョンの歴史大作『メイスン&ディクスン』で取り上げられる話題の一つ。
ノーチラス号とは、米国海軍原子力潜水艦第一号の名。一九五四年進水、一九五八年に実際、北極の氷の下を進んでいる。技士・発明家のロバート・フルトン(一七六五-一八一五)が設計した世界初の潜水艦も、ジュール・ベルヌが『海底二万マイル』(一八七〇)で描いた潜水艦も名前はノーチラス号。「水温躍層」とは、ある水深で急に水温が低下する部分。「エイハブが追う鯨」というのは無論、ハーマン・メルヴィル『白鯨』への言及。「特異点」はブラックホールを作るとされる宇宙空間の仮説上の点。「事象の地平面」は簡単に言うと、ブラックホールの内部と外部を分ける境界面のこと。「ベーリング海《シー》ソーセージ」は、シーソーのように船が揺れる海域という言葉遊びか。北半球で渦が反時計回りになるというのも注意深い細部。
この短編にはジャズミュージシャンの名がちりばめられている。オーネット・コールマン(一九三〇- )はテキサス州出身のサックス奏者。フレディ・ハバード(一九三八-二〇〇八)は、インディアナ州出身のトランペット奏者。ひょっとすると、それらに続いて用いられている「ディジー」という単語の裏に、ディジー・ガレスピー(一九一七-一九九三)も隠れているかもしれない。彼はサウスキャロライナ州出身のトランペット奏者で、ピンチョンが敬愛するチャーリー・パーカーとともに、モダン・ジャズの原型となるスタイル「ビーバップ」を築いた。
また、ポートランドうんぬんという部分にも、知る人ぞ知るネタが埋め込まれている。イングランドのドーセット州ポートランド半島では実際、ウサギは凶兆としてタブー視されている。かつて坑道が落盤する前にウサギが穴から出て来るのが目撃されたのがこの迷信の源らしい。「肉切り台《シャンブルズ》」というのは、岩礁があって波の荒いポートランド近海のあだ名。
(了)
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