2013年9月27日金曜日

ブリーディングエッジカラオケ


ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

ブリーディングエッジカラオケ

 横須賀米軍基地から二、三ブロック入った裏通りに、ヒデアキのカラオケバーがある。入り口に掲げられていたネオンサインは、数年前の台風「キロギー」以来、行方不明のままだ。しかし、口コミのおかげでヒデアキの店は、上陸許可をもらった水兵の行きつけとなっている――少なくとも、即興演奏を愛し、八分の十一拍子を刻める水兵にとっては。というのもヒデアキは、エリック・ドルフィーを記念して世界で初めて作られたカラオケバーだったから。
 狭くて薄暗い入り口から地下に、高さがばらばらの木の階段が延び、その先のドアを開けると、厨房の裏で魚を燻製にする煙とすえた臭いに満ちた部屋がある。客は小さなテーブルの周りに腰掛けて舞台の方を向き、隣のテーブルでリズムをシンコペーションする足踏みに合わせて頭を上下させる。誰もが何かしらの楽器を、店に持ち込んでいる――バスクラリネット、トランペット、サキソフォン、ドラムスティック、ブラシ、小槌(楽器用もそれ以外も)。一人の男が手にしている巨大なトライアングルは、いかなるバッソプロフンドよりも低い音を発しそうだ。テーブル三つはカズー専用。他は適当なもので間に合わせている――自転車のフレーム、如雨露《じょうろ》、ボートのエンジン部品。
 横須賀にあるよそのカラオケバーと違い、ここでは録音された伴奏が流れることも、歌詞字幕の付いたビデオが映し出されることもない。人呼んで、「リズム・モード・カラオケ」あるいは「フリー・カラオケ」。分類不可能だと言う者もいる。夜の九時頃、客同士の会話が急に静まる。店の主人であるスギモリ氏がカウンターに近づいて客の方を向き、「帽子と髭」と宣言。すると四、五人が舞台に上がり、セロニアス・モンクの引用みたいなリフを即興演奏し始める――ただし楽器はスーザフォン、自転車のシートポスト、ユーフォニアム、カズーだ。和服を着たウェイトレスが巨大なサーバーで辛口の日本酒をテーブルに運ぶ。タンブラーが満たされては空《から》になる。そして客はタンブラーを空にするたび、新たなスキャットを叫ぶ。舞台上のバンドがフロアから聞こえたフレーズを取り入れ、反復し、テーマを発展させ、やがてまた別のタンブラーが空になり、新たなスキャットが舞台に届く。
 間もなく、ウェイトレスたちが寿司や刺身の皿を客に出す。燻製マグロの握り、タコの足でくるんだ豆腐、生わさびを添えたイカとウナギ。それを見ただけで、隣のテーブルに座る客の目から涙が流れる。さらに店の名物料理が届けられる。鋳鉄製の焼き板で熱々のまま出される、エビとチーズの入った|お好み焼き《パンケーキ》だ。ウェイトレスは厨房と客席の間を駆け回り、皿を置くときも、日本の寿司屋というより、ニューヨークの安食堂みたいに乱暴だ。
 エビとチーズの臭いを嗅ぎつけた舞台上の演奏者が二、三人、自分のテーブルに戻ると、別の客がその後釜に座り、どんどん酒の進む客席から次のスキャットが提案されるのを待ち受ける。ローテーション演奏は真夜中過ぎまで続く。奏者は聴衆と交代し続ける。たまにスギモリ氏が「甘い曲、テンダーな曲」あるいは「とにかく起伏のある曲」と新しいテーマを叫ぶと、音楽が滑らかに新しいアルペジオ、調《スケール》、拍子に移行する。その後、水兵たちが徐々に船に戻り始め、夜が明ける頃には、ヒデアキのバーがようやく静かになる。
 スギモリ氏とウェイトレスたちが床とテーブルから、食べ残しのイカを片付け始める。スギモリがいちばん古株のウェイトレスに声を掛ける。「ミチヨさん。俺、今度は、文学のためのカラオケバーをやろうかと思うんだ。トマス・ピンチョンみたいな、すごくジャズっぽい作家がいるだろ? リズムを何度も切り替え、協和音に不協和音を混ぜ、終わりと始まりがぶつかり合ってる作家。『ブリーディング・エッジ』から取ってきたフレーズを誰かが大声で叫ぶと、別の誰かが即興でストーリーを作る。そこで酒を一本か二本飲ませたら、みんなも乗ってくるんじゃないかとおもうんだけど」
 スギモリは視線を落とし、溜め息をつく。「見てくれ、この床の散らかりようを。名前は、そう、ハッシュスリンガーズにしよう」
 「どうかしてますよ、スギモリさん。酔っ払った文学愛好家が書いたピンチョンもどきの文章なんて、誰が読みたいと思います? 先週この町に来たビートルズのトリビュートバンドとどっちもどっちの最低な思いつきですね」
 「そうかもな」と彼は笑顔を浮かべる。「けどとりあえず、宣伝文句はこうだ。あなたの書いた物語をスギモリにお送りください」
 彼は掃除の手を止めることなく、床に向かって言う。「ハッシュスリンガーズ。ヒデアキのバーと同様、誰でも歓迎。ルールは明記されていないものが二つ、三つあるだけ。ハッシュスリンガーズのスギモリ宛てにお送りください」

(http://www.hashslingrz.com/bleeding-edge-karaoke)

【訳者解説】
 この短編は、ピンチョンの作風をジャズにたとえている部分が興味深い。実際、彼のジャズ好きは、広く知られている数少ない個人的興味の一つだし、これまでにも何人かの批評家・研究者が彼の作品をジャズにたとえてきた。そして翻ってみれば、ここに訳出した四編が「ブリーディングエッジカラオケ」の実演だと分かる。いわゆる「メタフィクション」的に、この作品が他の作品を入れ子にしている。
 だが、話はそれだけで終わらない。さらに興味深いのは、結末でスギモリ氏が「ハッシュスリンガーズのスギモリ宛てに〔あなたの物語を〕お送りください」と呼び掛けている点。今、この文章をお読みになっているあなたもぜひ、「ブリーディングエッジカラオケ」に参加してみられてはどうか。つまり、『ブリーディング・エッジ』中の適当なフレーズをタイトルにして物語を書き、sugimori[at]hashslingrz.com に送ってみるのだ。数少ない条件の一つはもちろん、英語で書かれていることだ。ただし、その後の展開がどうなるか、訳者の保証するところではない。
 語句についての注釈を。日本では台風を「○年の×号台風」と呼ぶのが通例だが、国際的には個々の台風の名で呼ばれることが多い(アメリカのハリケーンにも名前がつけられる)。台風「キロギー」は二〇一二年の台風十二号のこと。
 音楽(主にジャズ)関係の用語も多く登場するので、なじみのない読者は面食らうかもしれない。エリック・ドルフィー(一九二八-六四)はカリフォルニア州出身のバスクラリネット、アルト・サックス、フルート奏者。伝統を踏まえつつ先鋭的で、独特のアドリブで知られる。「バッソプロフンド」は最低音域の荘重なバス声部のこと。「カズー」はおもちゃの笛の一種。口にくわえてハミングするとブーブーと音がする。一風変わった楽器としてミュージシャンが用いることもあり、ピンチョンお気に入りのアイテムの一つ。ここに出てくるトライアングルもそうだが、笑えるほど巨大な楽器は彼の作品に時々登場する。セロニアス・モンク(一九二〇-八二)はピンチョンが昔から敬愛するジャズピアニスト。その風貌は「帽子と髭」が印象的で、しばしば哲学的な一言を発したことでもよく知られる。「ユーフォニアム」は中低音域の金管楽器。「スキャット」は、歌詞の代わりに意味のない音節を用いる即興的な歌い方。

(了)

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