2014年7月10日木曜日

未来は永久凍土の上に





未来は永久凍土の上に
(http://www.hashslingrz.com/future-out-there-permafrost)

舞さつき・木原善彦訳

 身を切るような寒さの夜、チェコの兵士ヤーラ・ツィムルマンの小隊はボリシェヴィキ派先遣部隊の闇討ちに遭った。最後の生き残りとなったヤーラは食料もなく、森に逃げ込んだ。よろめきながら木々の間を進み、根っこに足をとられる。星ひとつない暗闇。方向を見失い、完全に迷うまでに時間はかからなかった。ここはどこだ。どこへ向かえばいい。地面に絶えず降り続ける雪片にチラチラと反射するほのかな灰白色の光に彼は気が付いた。夜明けを知らせる光で、雪に覆われた松の枝が姿を現す。太陽は雲にすっぽり覆われ、その姿を見せない。シベリア鉄道の線路まで戻らなくては。ヤーラは自らに刻一刻と迫る死を感じた。延々と続く荒野で迷った彼には、どちらが南でどちらが北なのかわからない。仮に方角がわかったとしても無駄だ。彼は戦闘の真っただ中、無我夢中で逃げてきたので、元いた方向を思い出すことすら困難だった。
 ヤーラが踏みしめるこの凍てつく荒野は、異教徒が暮らすロシア辺境の奥地にある。そこへ至る道は長く、危険だった。彼は故郷のプラハを追いやられ、オーストリア帝国軍に徴兵された。東部戦線ではロシア部隊と戦闘した。捕えられた彼は自ら忠誠を捨て、自由のため戦う裏切りのチェコ軍団に参加し、ウクライナ全域で中央同盟国と戦を交えた。十月革命とレーニンのドイツ講和条約受け入れによって、状況はまた変わった。チェコ軍団はロシアの広大な森と平原を抜け、シベリア鉄道経由でウラジオストクへ赴くこととなった。そこでアメリカの貨物船が彼らを拾い上げ、共にフランスで西部戦線に参加する……はずであった。ボリシェヴィキの裏切りにあったのだ。何千キロも続く鉄のレールに沿って、ウラル山脈から太平洋まで、チェコ軍団は今ではあらゆる街のため戦っていた。
 出口の見えない森でさまよい、方向も定かではない。人っ子一人おらず、辺り一面ただ雪と氷が広がるのみ。ヤーラは忘却が自分を待ち構えているのを感じた。骨の髄まで凍える寒さに耐えきれず、地面に崩れ落ちた。最後の力を振り絞り、何とか起き上がって松の木にもたれかかる。もうこれ以上は動けない。私はこうやって死んでいくのか。故郷から遠く離れた、いや、どこからも離れた場所で。彼は眠りに落ちた。
 ヤーラは、無数の羽飾りと飾り紐をぶらさげた毛皮を着ているモンゴル人の視線に気が付く。男は立派な角を持つ大きな白いトナカイにまたがり、笑顔でも眉をひそめるわけでもなく、ただ一心に――凝視とは違うのだが――こちらを見ている。動物の皮でできた太鼓を片手に、もう片方には先を革で巻いた骨製のばち。男は静かに太鼓を叩き始める。ゆっくりと、一定のリズムで。ヤーラは太鼓の音に合わせて、自分の心臓の鼓動が弱々しく動くのを感じていた。モンゴル人は歌いはじめる。遠くで吹く風のような優しい口笛。木々の間をすり抜けるように、霧がかすかに漂ってくる。奏者は太鼓の音と優しいささやきをそっと減らしてゆく。太鼓の音が聞き取れなくなった頃には、彼は歌うのをやめていた。
 どうしたことか、突然ヤーラは家族と故郷のことを思い出す。送れなかった手紙がコートのポケットに入ったままだ。彼はポケットに手を入れ手紙を取り出す。腕を男の方に差し出し、ここ数か月で覚えたばかりの、つたないロシア語で話しかける。「この手紙を、どうか。妻に宛てたものだ。彼女は遠くにいる。ここで死ぬのなら、これを彼女に届けないと」
 トナカイを前に進めさせ、モンゴル人は腰を曲げて、ヤーラの手から手紙を受け取った。トナカイから降りることはなく、また元の位置に戻る。雪の上でもその足取りはしっかりしている。モンゴル人は手紙を前に構え、慎重に切手をはがす。腰のベルトにつけたポーチから小さな本を取り出し、切手をその間にはさみ、またポーチにしまう。そして手紙をビリビリに引き裂き、空中に舞う雪のようにばらまいた。
「やめろ! 妻への最後の言葉なんだ、それをばらまくなんて!」。ヤーラは男の行動に愕然とした。しかし戦う気力も湧かない。
「何故あなたは死を望む? 未来への選択肢はいくつもあるというのに。夏の太陽が再び照らすのを待ちわびている未来が、雪に覆われた大地の上にある。あなたの精神が何かに気づくまさにそのとき、無限の数の未来がひとつに収束する。いずれかひとつの未来を現在に変えるのは何か? 神の思し召し? あなたがそう望むから? その二つの答えは、同じ現象を違う角度から見ているだけなのか、それとも違うのか? ある日、男が森でトナカイの死骸を見つける。彼が認識する直前、トナカイは生きていたのか、それとも死んでいたのか? ひょっとすると生きていると同時に死んでいたのかもしれない。しかし、そうだとすると、強靭な森の獣が死んだのは男がそう願ったからなのか?」
 ヤーラは、その男が流暢なチェコ語を話すことに驚愕した。口をほとんど動かすことなしに出るその声は、物静かで優しく、悪意も恐怖も感じられない。少し間を置いた後、モンゴル人が続ける。「私の同胞はエヴェンキ族だ。我々は地上の連鎖、魂の均衡の上で暮らしている。あなた方は我々を未開人と思っているだろう。それは違う。あなた方の科学では見えないであろう、あらゆる存在を結ぶトンネルを我々は知っている。私が切手をしまったのは何故だ、切手に神秘の力でもあるのか、とあなたは疑問に思っているだろう。大地の精霊の前ではこんな紙のしるしなど役に立たない、全くの無価値だ。あなた方の郵便システムを見ていると私は笑いたくなる。この切手は全く無駄なものだからこそ、いただいたのだ」
「私の妻は、彼女は、私がどうなったかわかるんでしょうか?」
「あなた方の魂は、飾り紐のように絡み合っている。あなたと彼女の精神の粒子は絡まりあい、絆は時空を超える。絆は時空を必要としない。別離など存在しない。それは魂でなく精神の錯覚だ。死が迫ったときには、あなたの妻の魂はさらに近くまで来ることだろう」
 ヤーラは疲労感から再び倒れこみ、意識を失う。目が覚めると、そこはプラハの通りだ。周りには笑いながら遊ぶ子供たち。彼のそばには妻がいる。そして、記憶にある姿より一回り成長した息子が彼の手を握っている。ヤーラは妻の方に振り向きキスをする。そして目をつむる。
 もう一度目を覚ます。すると、すぐ前の地面で薪の火が燃えている。羊毛製で厚手のオーバーが木の枝にかけられ、たき火の熱で乾かされている。彼はトナカイの毛皮でできた厚く暖かいコートにくるまれている。鍋がぐつぐつと煮えている。ミートシチューの香りがすさまじく飢えた彼の胃袋を起こす。モンゴル人はどこにもいない。ヤーラはシチューを食べ、出発の準備を始める。未来は永久凍土の上にある。今こそ、実現させるときなのだ。

【訳者解説】
 ピンチョン『逆光』にツングースカあたりを探検する挿話がありますが、この短編はそれを意識したものみたいですね。神秘的なシャーマンっぽい男が不思議な世界観を語ります。個人(木原)的には、かなり好みのスタイルと内容です。
 まずは歴史的背景から。第一次世界大戦中、ロシア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国軍のチェコ人及びスロバキア人捕虜からチェコ軍団と呼ばれる軍団級部隊を編成しました。この短編の主人公ヤーラはチェコ軍団の一人。ボリシェヴィキはロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジミール・レーニン率いる左派の一派で、彼らは十月革命後、一九一八年三月三日にブレスト=リトフスク条約と呼ばれる講和条約をドイツと締結します。チェコ軍団はチェコスロバキア独立のために、シベリアを経由してウラジオストクに向かい、アメリカ経由の海路で西部戦線に渡ることが決められましたが、三月半ばに至るまでウクライナにおいて中央同盟国のドイツ軍、オーストリア軍と戦闘を継続せざるを得ませんでした。同年五月二十五日、ウラジオストクに向けて移送中であったチェコ軍団の一部が、ボリシェヴィキの対応に反発し、ウラル山脈南東部の都市チェリャビンスクにて蜂起しました。彼らは八月までにヴォルガ川流域からウラジオストクに至るシベリア鉄道沿線の主要都市を制圧し、ボリシェヴィキに軍事的な圧力をかけました。なお、このページに使われている切手の画像は、一九一七年にチェコ軍団が発行した軍事郵便用の軍事切手のひとつです。
 「エヴェンキ族」はツングース系民族の一つで、主にロシア国内のシベリア連邦管区にあるエヴェンキ自治管区に居住しています(ほかに、ロシア国内ではサハ共和国などにも居住し、中国国内でも興安嶺山脈周辺の内モンゴル自治区・黒竜江省などに居住している)。
 最後に、「ヤーラ・ツィムルマン」という人物について。ヤーラは1853~1859年の間、いやもしくは1864、1868、はたまた1883年に、チェコ人の父、オーストリア人の母のもと、ウィーンに生まれ、様々な偉業を残した、ヤーラ・ツィムルマン劇場の創始者。テレビ局がおこなった「チェコ人が選ぶ最も偉大なチェコ人ランキング」で大多数の票を得た。
彼が行ったとされる偉業の例を挙げると・・・

  • パラグアイに人形劇場を作る
  • ヨーグルト菌を発見
  • サモエドの研究
  • エジソンが電球の製作に取り組んでる際、ソケットのおへそ部分を捧げる
  • ツェッペリン伯爵と共にチェコの帆を使ったゴンドラ飛行船を開発
  • 雪男ヤー・ティ(チェコ語で「私・君」)を考え出す(後にイギリス人によって「イエティ」として広められる)
  • 他にもビキニ、CD(ツィムルマンのディスク)、インターネットの理論、低脂肪乳など、数多くのものを発明
  • (ナイフとフォークを使って食べることがいかに効率が良いかを教えるため、日本へ渡ったなんていうエピソードも。)

世界中を放浪する歯科医として働いていたそうだが、チェコで幾人もの口を開き、彼らが抱える問題や不満を聞くうち、作品の題材と出会い、劇作家として目覚めたそう。しかしながら当時、彼の作品があまりにも芸術性の高いものであったために、文学評論家からの理解は得られることはなかった、とか(詳しくはこちらのHPを)。
 ええ! っという感じですが、実は……
 彼は、実は劇作家ラディスラフ・スモリャークとズディェネク・スヴェラークが考え出した架空の人物。しかしながら、チェコ人の間でヤーラ・ツィムルマンの人気は絶大。劇場には彼の銅像が置かれている。
 よくできたネタですね。驚きです。
 それから、謎の男が語るトナカイの話は、(知っている人にはピンと来たと思いますが)「シュレーディンガーの猫」を踏まえています。いわば“シュレーディンガーのトナカイ”、いや、“エヴェンキのトナカイ”。リンクを張ったウィキペディアの説明は必ずしもわかりやすくないですが、かといって、他にネット上では簡潔な説明が見つからない……。要は量子力学の思考実験です。以下、『ブリタニカ国際大百科事典』からの引用。
箱の中で原子が崩壊すれば中のネコは死に、崩壊しなければ生きているものとする。原子の崩壊は量子力学的現象であり、原子は崩壊と非崩壊の状態の重ね合わせとされる。ノイマンに従えば、一定時間後には、ネコは半分生きており半分死んでいることになり、人間が箱を開けたとたんネコは生か死に至るという論理が成立する。
というパラドクスです。量子レベルでは確率的状態というのは漠然と理解できても、それがマクロなレベルに引き写されると常識と相反する現象になるので、またそこで、それをどう解釈するかという問題が起きてしまいます。コペンハーゲン解釈とか、多世界解釈とか。波動関数の収縮というのは、少し言葉を変えてピンチョンの小説『メイスン&ディクスン』にも出てきました(これもアナクロニズムですね、もちろん)。

(了)

2014年7月7日月曜日

歴史をさかのぼる



歴史をさかのぼる
(http://www.hashslingrz.com/going-back-history)

ハッシュスリンガーズ著 于淼・木原善彦訳

 監視カメラのビデオ映像が巻き戻され、再び自動で再生が始まると、彼は映像を一時停止し、最後にもう一回、顔を拡大してスローで映像を見直す。
 「いや、この男はただ、金曜日の祈りに行こうとしているだけのブラッドフォードの一般市民だ。われわれがマークしている人物よりずっと背が高くて、やせている。でも、私を呼んだのは正しい判断だ。この男はターゲットと同じナイキのニットキャップをかぶっている。いいところに目を付けたな。これ以上見る必要はないが、ブラッドフォードとリーズのモスクから目を離してはいけない。ターゲットはまだこの地域に残っていて、まだ仲間と一緒にいるだろう。もし他に何か気づいたら連絡してくれ」
 人間工学的に最適化された回転イスと三面スクリーンの操作台席から立ち上がり、回れ右して作戦室の高度防火戸をくぐり、エレベーターへと続く廊下をキビキビと進む。後ろにある大きなモニターから響いてくる二十四時間ニュースを無視し、下行きボタンを押す。エレベーターが上がってきて、扉が開く。中に入ると、一階のボタンを選ぶ。頭の中は空っぽだ。週末の予定も、今週調べてきた膨大な機密情報のことも考えられず、ただただぼんやりしていて、下へ向かう道中エレベーターに出入りする職員にも気がつかない。
 今日はもう遅いので、MI6の本部に帰る必要はない。ミルバンク法律事務所へ行くことは午後にテレビ電話を通じて行われるアメリカ国家安全保障局との近況報告会議――アメリカサイバー軍の専門用語では「朝の祈祷」――をサボるためのちょうどいい言い訳であった。ビデオ通話の内容はきっと、ロンドンにいる同僚との会議と変わらず、最新の携帯電話や車の性能、そしてヌードバーに関する冗長な自慢話だ。彼はアメリカの情報部員に嫉妬していたわけではないし、潜在的なコンプレックスで疎外されていると感じたわけでもなかった。秘密の人脈に対するあこがれもなかったし、新しいテクノロジーや自由に手に入れられる性的満足感も、彼を虚しさから解放できなかった。
 彼はグレート・ピーター・ストリート側の入り口から出て、ビクトリア駅へ向かう。道すがら、違法駐車のジャガーの下に落ちたマクドナルドのハンバーガーの箱を拾っている、蛍光のベストを着たカリブ系の年配の清掃作業員とすれ違う。左に曲がって、ヴィンセント広場から少し入った賃貸のワンルームマンションに着く。すると共用玄関で、一階に住んでいる老婦人のジョーンに話しかけられる。ジョーンはいつも皆から、住人に関わるうわさ話を聞き出そうとする。まるで彼女は、禁じられた外の世界からの情報を住人から聞き出そうと、出入り口に一生居座っているかのようだ。
「あら、久しぶりね! しばらく見なかったけど、二、三週間ぶりかしら? また海外へ出張でも?」
「ネバダ州でコンピューター関係の会議です。実は今週の始めに帰ったんですが、いつも遅くまで仕事をしているので」
「ネバダ州? あっちは砂漠ばっかりじゃないの。そこでコンピューターの仕事なんて奇妙じゃ……」
「ラスベガスですよ。でも正直、まったく退屈な仕事でね。丸一週間コンピューターのモニターとにらめっこです。観光をする暇もない」
 実は彼が参加していたのはハッカーの世界大会“デフコン”だった。彼が普段の生活について他人に話すとき、その内容はかなり真実に近い。いったん組織に参加したら、初日の第一課から、情報保護の誓約をする引退の日まで、基本的な掟が何度となく繰り返される。すなわち、いつも作り話を持っておくこと。最も効果的に嘘をつくには事実に基づいたものにすること。そして、常にうんざりした口調で質問に答えることだ。
 退屈な仕事だと言えば、他の人がさらに詳しい話を聞こうとすることもないし、話はすぐ別の話題に移る。彼が初めて保安任務を遂行した際は、北アイルランド問題が収束に向かっていた時期だったので、「私は北アイルランドにあった基地を撤収する作業をしています。主にデスクワークで、命令書や送り状、執行状《ディスパッチ》などくだらない雑務ばかりです」と話すよう勧められた。誰が命令を下していたか、誰が送り状を受け取るか、またかわいそうにも|殺害実行《ディスパッチ》されてしまったのは誰だったか、などがその先の会話の中で聞かれることはなかった。
 他の多くのメンバーと同じく、彼はケンブリッジでこの組織に入り、当初は、英雄たちのロマンチックな冒険物語に魅了されていた――アーサー・コノリー、ベイリー大佐、ヤングハズバンドとその仲間たち。誇張された英雄、歴史上の先駆者、ロシアを相手にしたグレート・ゲーム、広大で未知なものへの挑戦、中央アジアの平原と山脈横断の旅、雪原を越えて禁断のチベット僧院へ至る探検。携行するのは最低限の必需品のみ。何週間も本国との連絡はなし、支援者をすぐに呼べるような魔法の合い言葉もなし。
 今日では、組織が「危険地域」と見なしているのはブッドフォードやリーズ、マンチェスターなど北部の都市近郊に住むアジア系コミュニティーだ。たとえ昼間でも直接地上から入るのは怖いので、作戦行動は完全にテクノロジーに頼りきりだ。モスクの入り口に仕掛けた隠しカメラが絶えず遠隔視聴センターに映像を伝え、携帯と固定電話は盗聴、Eメールとウェブサイト閲覧履歴に関する情報は中部イングランドの田舎にある広大なコンピューター処理センターに取り次ぐ。
 全ては遠隔的、自動的、疎外的で、人間の直観や理解は介在しない。昔のロマンスはもはや消え去り、ヤングハズバンドがチベットで経験した神秘的な出来事も、幻想も、精神の覚醒も、はるかなるアルタイルの導きも、ことごとく、現代技術のもたらした効率的手順によって排除されてしまった。
 彼が世界から疎外されていると感じるのは、単に厚かましいアメリカの国家安全保障局のスパイたちのせいでも、また彼らの酒宴や低俗なストリップ劇場通いのせいでもない。あらゆる業務に浸透しているハイテク装置は、敵を切り離すだけではない。あらゆるものを孤立させてしまうのだ。それも完全に。
 彼は自分の部屋の前に着き、ドアを開けてリビングに入る。カーテンを引いて、服を脱ぎ、きちんと畳んでから、ぽつんと置いてある椅子の上に重ねる。そしてキッチンの隅にあるエドワード七世時代風の、上部がドーム型になった幅広のトランクを開けた。丈夫な金属のバンドが縁をぐるっと囲い、側面で十字架を作っている。彼は裸のまま、蓋を持ち上げ、トランクに入る。仰向けになり、両足を胸に抱き寄せ、ほとんど胎児のように、革で縁取られた空間を自分の体で満たす。彼は内側の縁に指を掛けて、蓋を下ろす。トランクは自動ロックの掛け金のカチャッという音とともに閉まる。完全なる闇の中、彼は瞳を閉じて虚無が自分を包み込むのを待ち構える。

【訳者解説】
 ハッシュスリンガーズさんにしては珍しく、静かな雰囲気の超短編。テクノロジーのせいで冒険とは全く縁がなくなったスパイの孤独……。古いトランクに閉じこもる結末も余韻があっていいですね。
 「MI6の本部」と訳した箇所は、原文では"the hanging gardens of Vauxhall, Babylon-on-Thames"となっていますが、今回は(ためしに)脚注を付けないという方針で、わかりにくそうな単語も訳文自体にできる限り説明させるようにしてみました。二〇世紀初め頃のイギリスのスパイたちについても、「文脈的に、二〇世紀初め頃のイギリスのスパイなんだろうなあ」ということさえ分かればいいということにしました。
 というわけで、註はなし。解説も特に必要なさそうですね。
(了)

2014年6月27日金曜日

独りよがりな自転車ライダー



独りよがりな自転車ライダー
(http://www.hashslingrz.com/morally-self-elevated-bicycle-riders)

二輪のラッダイト著  安保夏絵・木原善彦訳

 セルビア人のテロリストとオーストリア・ハンガリー人の暗殺に関する酒場の会話にはもう飽きた。イギリスは国内問題だけで大変だ。女性参政権論者の過激派が至る所に爆弾を仕掛けている――セントポール大聖堂からイングランド銀行、数週間前にはウェストミンスター寺院にある即位式用の椅子の下にまで。まったく悩ましい。白目製のジョッキを口に運びながら、ネヴィル・ファイフヘッドは松に似たホップの香りを吸い込む。この黄土色の美味しいビールを飲めば再び自転車をこぐ元気が出る。ゴクゴクゴクと、バジャー・エールをもう一杯。店を出る時間だ。
 酒場を出たネヴィルは信頼性のあるローバー安全型自転車に乗り、小説家のトマス・ハーディーがショッツフォードと呼んだブランドフォードを去る準備に取り掛かる。ちょうどその時、新型っぽい自転車に乗る一人の若い女性が、道路の向こう側にある「クラウン・イン」の入り口から現れた。
「ごきげんよう。チェイス川を渡ってソールズベリーにいらっしゃるのかしら?」。彼女はおじることなく尋ねる。
「おっしゃるとおりです、マダム。トマス・ハーディー の有名な小説で描かれた全ての場所を訪れるために、私はこのローバー・コブ・バイクに乗って観光しているんです。次の目的地はメルチェスター」
「まぁ! あなたも文学作品に憧れて自転車で観光を? なんて素晴らしい偶然なのかしら。私はH・G・ウェルズの『偶然任せの自転車旅行(The Wheels of Chance)』でジェシー・ミルトンが走るルートをたどっているの。ところで、私の名前はビー。ビー・ミンスター」
 ネヴィルは彼女の積極性に少なからず驚いたものの――もちろんブルマとコルセットの下にある魅力的な体型にもたじろいだのだが――丁寧に帽子を軽く持ち上げ、少し照れてつかえながら言う。「お会いできて嬉しいよ、ビー」
 しかし、大量に飲んだビールの影響もあって彼はすぐにおしゃべりになり、会話が始まる。ネヴィルはハーディーの叙述の仕方について情熱的に説明し始める。ハーディーは比喩や繊細な細部、完璧な語彙選択を通じて、心と体と魂について複雑で、かつ現実味のある描写をする。しかし彼の小説は、イギリスの失われた理想郷に関する物悲しい思索を含む一方で、現代の変化を映し出してもいる。制御不可能な世界的規模の勢力としての産業化や帝国主義が田舎でも都市でも労働者の上に黒い雲を投げかけ、普通の人々は絶望し、無力になっている。寡占的資本主義や機械化が社会の全ての階層に浸透することで、結果的に人類を破滅させようとしている。
「ハーディの小説って必ずしも楽しいものじゃないですよね?」とビーが話に割って入る。「何かの出来事がある前に何ページも何ページも退屈な描写を続けたりしなければ、多少は楽しい作品になるでしょうけど。誰だって馬くらい知っているのに、ハーディーはそのたてがみを説明するのに二十ページも使う。私に言わせれば、彼はむちゃくちゃすさんだメロドラマを書く達人。しかも、他の誰よりも新しいタイプの女性を恐れています。『日陰者ジュード』では、ジュードの息子は首を吊って自殺する前に、弟や妹を殺す。ジュードが心の底から愛したスーは神なき生活から逃げ出す。そして色情狂のジュードは傷心し、一文無しになる。彼もまた、女性の気まぐれに振り回されて死んだ被害者というわけ」
 話題はH・G・ウェルズに移る。ビーはウェルズが文体の革新者であると考えている。ウェルズは一つの物語の中で、複数の語り手を次々と切り替える。あるいは、社会的な概観や論評を加えるために未来の歴史家の視点を設定したりする。「『宇宙戦争』には優れた兵器で侵略してくる火星人が出てくるの」とビーは説明する。「それは人間自身の滅亡の寓意なのよ。人間は自分たちの方が道徳的に優れていると信じてドードーやバイソンのような動物種を滅ぼした。その先には人類の滅亡がある。タスマニアのアボリジニたちは開拓移民が羊を飼うということで、まるでカラスのように撃たれた。何人かいた生存者も収容所に入れられ、病気や飢えで亡くなるまで放っておかれた。ウェルズは読者に、虐げられた人々の視点から植民地主義による侵略を考えさせるようにしているんじゃありませんか。化学ガスや熱線銃みたいな兵器……そんな技術が現実のものになったら――きっとそうなりますけど――一体ヨーロッパの列強はどうするんでしょう? ある人種や帝国に優越性がある、そして他の弱者を搾取し、酷使して商品として扱う権利を持つというこの思考は、奴隷制とともに終わるべきものだった。そして国と国との間に当てはまることは、国の中にも当てはまる。だから、今日のイギリスは女性はまだ参政権を得ていないの」
 会話を途中でやめたビーは突然、ネヴィルが坂に苦労しているのに気付く。足はペダルが上に来るたび、ギシギシと音をたてながら止まりそうになり、顔は驚くほど紫色だ。呼吸するたびに息切れをしているネヴィルは逆に、ビーがまるでヤギのように坂を踊りながら登るのを見て驚きを隠せない。そしてビーの自転車の後輪を見て初めて、ギアやテンショナー、レバー、ケーブルといった驚くべき構造に気づいた。
「これはフランスの最新の発明品なの。“変速機《ディレーラー》”」。ビーはネヴィルの視線が下を向いていることに反応して説明する。「このレバーを使うと、ペダルを漕いでいる最中にギアを速やかに切り替えられる。プーリーが二つあるからチェーンのテンションは保たれる。チェーンはアメリカで新しく発明された小型のジャイロコンパスにつながっているの。自転車をこぐと、摩擦駆動装置《フリクションドライブ》がものすごいスピードでジャイロを回転させて、ジャイロは重力の力によって正確に北の方角を示す。それを利用して、私が左右に曲がるときには方角が修正される。そして、サイン、コサインの値を差分ギアボックスに入れて、直交速度ベクトルを割り出し、二つのサイクロメーターを動かす。要するに、緯度方向と経度方向に移動した距離を別々に計測するわけ。残念なことに、坂道があると測定に誤差が生まれるけれど、摩擦駆動装置《フリクションドライブ》があるから、ジャイロコンパスの慣性の力を車輪に伝えることが可能なの……そしたら、ビューン! すいすーい! 貯めたエネルギーを使って勝手に登っていく。テクノロジーとはすごいものね。いつか、エンジニアが一定の周波数の無線局でネットワークを作って、信号の位相の違いを比べることで、今いる場所が正確に分かるようになるでしょう。想像してみて! もう二度と、迷子になることなんてないのよ。そんな技術が生まれたら、一体何ができるか考えてみて」
 ネヴィルはビーが言っているちんぷんかんぷんな科学の話を全く理解できない。地図とコンパスで何がいけないのか。そもそも彼女の言っていることは可能なのか、それとも彼女のおしゃべりはウェルズ風のサイエンスフィクションなのか。人類が科学技術の発展に支払う代価、すなわち工場や怪物のような軍事資源はあまりに高すぎる。しかし、リングウッドへの曲がり角に達する頃には、信じられないことに、似ても似つかぬ二人の意見が一致する。自転車というものは質素だが、人類最大の発明品であることは、ラッダイトでも認めるところだ。自転車は産業化時代の究極の産品であり、全ての人に自信と自由を与え、活力と精神的な豊かさを維持させる点で並ぶものがない。まさに、ウェルズ氏が主張するように、“自転車に乗る大人を見ると、とても人類の行く末に絶望する気にはなれない”。まったくその通りだ、とネヴィルは思う。

【訳者解説】
 ピンチョンさんの小説を読む限り、彼が自転車に乗ってそうな感じはあまりしません。『ブリーディング・エッジ』には、ニューヨークの街を独りよがりに走る迷惑サイクリストがちらっと登場したりする(この作品のタイトルが出て来る箇所)ので、むしろニューヨーク居住者として自転車乗りをよく思っていないのかもしれません。ちなみにタイトルは、『ブリーディング・エッジ』内ではあまりよくない意味で使われたフレーズ。でも、この短編の中では、「自分で勝手に坂を登っていく自転車」という意味になっています。
 この短編を書いた「二輪のラッダイト」(ハッシュスリンガーズさんと同一人物?)さんは自転車が好きらしくて、短編にその愛情がみなぎっています。
 ピンチョンさんはさておき、自転車好きの有名人でPさんとどこかしら共通点がありそうな人はたくさんいます。パソコンのことを「知の自転車」と呼んだスティーヴ・ジョブズ(詳しいことはこちらのHPなどを参照)。自転車旅の滑稽小説『偶然任せの自転車旅行(The Wheels of Chance)』を書いたH・G・ウェルズ(小説はグーテンベルクプロジェクトで読めます。梗概を読む限り面白そうですが未読。どうやら日本語に訳されたことはなさそうですので、邦題も定まっていません)。アインシュタインは自転車に乗りながら相対性理論を考えたとか、JFケネディが「自転車に乗る純粋な喜びに勝るものはない」と言ったとかいうはなしもこちらに紹介されています。海外文学のファンなら「自転車小説と言えばフラン・オブライエンの『第三の警官』(つい最近、白水Uブックスで復刊)だろう」という方もあるかもしれません。
 ハーディー好きな男(古風な男)とウェルズ好きな女(今時な女)が自転車旅で出会い、女は変速機・摩擦駆動装置・アナログナビ付きの最新型自転車で颯爽とダンシングしながら坂を上り、男は顔を紫にして必死に坂を登る……。面白い構図だと思います。変速機はもちろん実在しますが、ここに記述されるような自転車ナビは存在しません。でも、摩擦駆動装置《フリクションドライブ》というのはかなり古くから実在します。電動アシスト自転車みたいに、必要に応じて後輪をモーターで回転させる装置。いわゆる電動アシスト自転車はハブの部分で回転を伝えるのだと思いますが、フリクションドライブはタイヤのゴムの部分に回転を伝えるので、普通の自転車に取り付けたり、坂のときだけ装置をタイヤに接触させたり、と自由度の高い道具みたいです。
 ローバーの自転車はここで見られます。
 とか、ちらちらと検索をしていたら、トマス・ハーディーがローバー・コブ・バイクに乗っていたという記事を発見しました。記事を読むと、ずっと馬車で移動していたハーディーが最初に自転車に乗るようになったのは、“進んだ女”だった奥さんに勧められたのがきっかけだったとか、一日で40マイル(60-70キロほど)走ったりしたとか。勉強になりました。というか、上に添えた写真こそ、ハーディーとその自転車ではありませんか!
 自転車のことばかり書いていたら、『日陰者ジュード』とか、女性参政権運動とか、時代設定(1914年)とか、他のネタに註を添える力が尽きました……。

(了)

2014年6月12日木曜日

血と羽



血と羽
(http://www.hashslingrz.com/blood-and-feathers)

ハッシュスリンガーズ著 佐野知足・木原善彦訳

 シェネガ表現療法センターはロサンジェルスとパームデールを結ぶ幹線道路から数マイル離れた小さな丸太小屋にあった。傍には湧水からできた泉があり、庭を鴨と雁《がん》がのびのびと歩き回る様子は温かい農家の雰囲気を感じさせ、砂漠と雑木が広がるキャニオン街道にとっては小さな緑のオアシスであった。  
 今日、アシュリン・ギアズは前向きな気持ちでそこへ来た。彼女は最初、演技療法を受けるつもりだったが、本職にあまりに近すぎたために、結局落ちついたのが記述表現療法だった。アシュリンは初診で、この療法が激しいもので感情を消耗しやすいと警告を受けた。しかし、たちまち彼女が感じたのは自由と解放感、それに悩みが晴れ、消え去ってしまう感覚だった。ジャックシェッツ医師は彼女の世界のすべてを変えた。魔法の治療、いや、人生の錬金薬。何であれ彼女は六回分の治療費を払い、治療は残すところあと二回だった。
 ジャックシェッツ医師は受付にいたアシュリンを診察室に招き入れた。今日の医師は普段より険しい表情をしていた。銀のもつれ髪にジーンズ、へそのあたりでボタンを留めたアロハシャツというカジュアルな姿だったが、彼の眉間には深いしわが寄っていた。
 「ギアズさん、記述表現療法とは患者が過去のトラウマや自らの非常に個人的な考えや感情について書くことです。しかしあなたの最初の挑戦は、遺伝子操作されたモンスターが登場する凶悪な終末的ストーリーであり、あなたの過去とは何ら関わりがないものでした。さらに言えば、感情的要素は全くもって表面的でした。絶叫、暴力、さらなる暴力、最後は突然、衝動的かつ不可解で制御不能な性的欲求といったふうに」
 「私は驚くべき人生をおくってきたのです、ジャックシェッツ先生。その話には、先生が想像する最も狂った夢よりもっと凄い個人的トラウマが含まれていますわ」。アシュリンは最大限の無垢な笑みを医師に向けた。  
 「その話は後でしましょう。あなたの二回目の挑戦は、始まりはよかった。夫の浮気を発見した際のあなたの感情面での反応は正直かつ率直でした。ひょっとするとあなたの心の奥底が一瞬本当に垣間見えたのかもしれない。しかしあなたはすぐに主題から逸れ、アカプルコでの休暇について話しだす。そしてここからあなたの話は、でたらめな性的体験の目録へと劣化していくのです。女友達とのレズビアン行為、またその友達の彼氏とのアナルセックスやオーラルセックスによる乱交パーティーでの絶頂、ひいては男性パートナーが達するまでスパンキングする女王様の役目をあなたが引き受けたSMプレイなど、刺激的な読み物だと思ったことは認めます。しかし、そこにはあなたの根本的な感情についての記述がほとんどなかったのです、ギアズさん」
 「けど、記述療法は役に立っていますわ、ジャックシェッツ先生。それに何より、天職が見つかりました。私は作家になれます。自信があります。もちろん性格描写、会話、視点などの細かな点を習得するには少し時間がかかるかもしれませんが……だけどそんなことは単に小手先の問題です。良いプロットさえあれば、あとはどうってことありません」
 「私は治療の末にあなたが辿りつく結果を心配しているのです、ギアズさん。そこで今日は、ちょっと新しいものに挑戦してみたいのです。あなたの精神を悩ます深層心理に深く眠る問題を一緒に解放しましょう。仰向けにこの寝椅子に腰掛けて、頭を空っぽにしてください」
 ジャックシェッツ医師はベランダに出るドアに向かった。外では彼の息子が楽しそうに三輪車で駆け回っている。ドアを開けると雌鶏が医師に優しく"バック……バック …ブルック…ブルーック"と挨拶し、部屋に上り込んで、医師の足下をつついた。ジャックシェッツ医師は机からトウモロコシの粒が入った袋を取り出すと、床と寝椅子、さらにはアシュリンの腹の上にもそれをばら撒いた。
 「今日のこの治療は熱心な飼鳥家であり、精神医療の分野における表現療法の先駆者でもある、アメリカ精神医学の父、ベンジャミン・ラッシュの研究ノートに記された実験に基づいています。私たちは鶏という媒体を通してあなたの精神を探っていきます」
 二羽の雌鶏は切られた翼を猛々しく羽ばたかせると、放物線を描いてアシュリンの腹の上に乗っかった。二羽の鶏は怖がるというより、むしろ熱心にアシュリンをじっと見つめ、じりじりと詰め寄ってくる。その様子は頭部を常にジャイロスコープみたいに水平に保つジュラッシクパークに出てくるヴェロキラプトル に似ていなくもなかった。二羽は立ち止まると、アシュリンの胸の谷間からトウモロコシの粒を啄ばんだ。
 「それでは集中してください。あなたは今、鶏です。鶏の目で、寝椅子に横たわるあなたを見てください。何が見えますか、ギアズさん」
 「不安げな女性が見えます」
 「いい感じです。あなたはなぜ不安なのでしょう」
 「このDKNYのシルクの服の上に鶏が糞をしないか不安なのです。これは自宅では洗濯できませんから」
 「急ぎすぎましたね。もう一度やり直しましょう。ご存知のように、鶏たちはお互いをくちばしでつつき合って明確な序列を決め、それに従っています。一度序列が作られると、争いはほとんどありません。しかし新参者がそこに入っていくのは難しい。人生とはタフなものなのです。物書きの世界にも、すでに有力な鶏たちがいるのです、ギアズさん。それはポストモダン文学の巨匠かもしれない、熟練の女性作家か、ジャーナリスト、推理小説作家、一般人の物書きかもしれない。彼らは凡庸だが、多産です。だけど私が思うに、ギアズさん、物書きという点において、あなたは年増の、卵を産まない雌鳥なのです。あなたは彼らに徹底的につつかれ、排出腔の羽をむしりとられ、裸にされ、血を流すことになるでしょう。あなたの文学における素人的挑戦は序列の最下位に位置します。その一方で、あなたはまだ空想世界に生き、自分が作家になれるのだと信じている。そして、精神に取りついた感情や過去を押さえ込み、埋没させようとしているのです」
 アシュリンは突然混乱してきた。ジャックシェッツは単なる気の狂ったやぶ医者じゃないのかしら。少し前まではジャックシェッツ医師が自分にしてくれたことすべてにアシュリンは感謝したいと思っていた。だが今、自分はここに横たわり、新しい洋服はトウモロコシの粒と鶏の糞まみれで、ジャックシェッツ医師から侮辱を受けている。それとも、彼はみせかけのアシュリンの奥底にある真実を暴いているのか。
 突然の衝突音で治療が遮られた。ジャックシェッツ医師の息子が庭のガラス扉に頭から突っ込んだのだ。それに驚いた鶏は前のめりになってアシュリンの鼻を鋭く突いた。すると傷から流れ出した血が彼女の顔をつたい、羽毛と相まって、光沢《グロス》のある唇にべったりと付いた。アシュリンが飛び起き、雌鶏が飛びのいた。
 「いいですか、先生。私は低俗な女優でした。お粗末なB級映画やポルノにも出た。恥だとは思わなかった。お給料はよかったし、楽しかった。何も気にしてないわ、ジャックシェッツ先生。だけど、私は業界のタブーは守ってきた。“子供や動物と仕事をするのはご法度”ってね」

【訳者解説】
 偉大なる喜劇役者W.C.フィールズ(ピンチョン『重力の虹』に言及あり)は「子供や動物と仕事をするのはご法度(Never work with children and animals)」という名言を残したとされています(もちろん、子供や動物は思ったように動いてくれないから、というのがその理由です)。その言葉を軸に書かれた短編です。
 アシュリン・ギアズは実在の女優であるアシュリン・ギアに基づいて造形された人物で、いわゆるB級映画に多く出演した人です。ですから結末は、「そんな私でも子供や動物との共演は断ってきた。なのに、先生ときたら、仕事の最中に庭で子供を遊ばせたり、動物を使って治療をしたりして、どういうつもり?」というオチになっています。オチをくどくどと説明するのは訳者として失格な気がしますが、上の訳でそれが伝わる自信があまりないので念のため。というのも、「子供や動物と仕事をするのはご法度」とか鶏の「つつきの順位(pecking order)」とか、英語ではわりと認知されている表現が、日本語では(多分)あまり定着していないので、そのまま訳すとぎこちない。でも、註を付けるのはまた別の意味でぎこちない。だから、少し言葉を足したりして該当部分を処理したのですが、ピタッと決まっているとは言い難いですね。

(了)

2014年6月11日水曜日

彩流社現代作家ガイド7『トマス・ピンチョン』がいよいよ発売です

[This post is a promotional interlude, not a hashslingrz story.]

今回はハッシュスリンガーズの短編ではありません(すみません)。
彩流社現代作家ガイド7『トマス・ピンチョン』がいよいよ発売になります、というお知らせです。



【内容紹介】
ポスト・モダン、そしてアメリカ現代作家の最高峰!?
トマス・ピンチョン、
「現代作家ガイド」シリーズについに登場!!
満載のギャグやポップカルチャーと高度な知性の混交、圧倒的な情報量、
複雑な構成、ノンストップで走りまくるストーリー……。
研究者はもちろん、文学ファンにも好評の「現代作家ガイド」シリーズの
最新刊は、その作風を一口には語るのが難しいだけでなく、公に姿を現さず、
プロフィールがいまだ謎に包まれる作家トマス・ピンチョンを取り上げます。 
【目次】
はじめに
 スターターキット(ピンチョンを読むためにおさえておきたいこと)
ピンチョンが語るーーエッセイ2 篇
 『ドン・Bの教え』(ドナルド・バーセルミ)への序文
 『ストーン・ジャンクション』(ジム・ダッジ)への序文
ピンチョンを語ろう
 【総論】ピンチョンとポスト・モダニズム
 【起源】理性と狂気
 【展開】ツーリストの論理
 【表現】ピンチョン節とは何か?
 【本質】探偵と電球
 【再構築】ピンチョンにみるポストモダン小説の変遷
 【継承】パラノイド文学史序説
増幅するピンチョン・ワールド
 日本におけるピンチョン受容/ピンチョンマニアが集う場所/貴重な草稿/
 明かされた人生/ゴシップ、そして論争/ピンチョン談話/作家の素顔を探
 る旅/ビジュアル版『重力の虹』/「聖地」をめぐる物語/陰謀史観がカワ
 イイ化したら/ヘンリー・ミラーとの邂逅?
ピンチョン作品ガイド
 V./競売ナンバー49 /重力の虹/スロー・ラーナー/ヴァインランド/
 メイスン&ディクスン/逆光/LAヴァイス/ブリーディングエッジ
BIBLIO(ビブリオ)+批評書ガイド付

【執筆者】
石割 隆喜(イシワリ タカヨシ)
大阪大学准教授
大串 尚代(オオグシ ヒサヨ)
慶応大学教授
巽 孝之(タツミ タカユキ)
慶応大学教授
波戸岡 景太(ハトオカ ケイタ)
明治大学准教授
三浦 玲一(ミウラ レイイチ)
前・一橋大学教授。
こんな感じです。

  • 最新作『ブリーディング・エッジ』ってどんな作品? 
  • 『重力の虹』のあらすじを手っ取り早く知りたいんだけど。
  • ピンチョンが9・11についてインタビューを受けたっていう話について知りたい。
  • ピンチョン関連の映像作品って、どんなのがある?
  • ピンチョンが他の作家の小説に序文を書いたものを読みたい!
  • ポストモダン文学とかって、そもそも何?
  • ピンチョンの私生活にちょっと興味がある……
  • 『ユリイカ』のピンチョン特集からもう四半世紀になるのに、新しい論集は出ないの?
  • 研究者が『重力の虹』について書いた論文を読んでみたい

というご期待に応えられるよう頑張りました。
執筆者の顔ぶれも豪華です。
どうぞ一度、書店で手に取っていただけますと光栄です。

2014年6月5日木曜日

無政府主義者の暗号



無政府主義者の暗号
(http://www.hashslingrz.com/anarchist-code)

ハッシュスリンガーズ著 藤木祥平・木原善彦訳


「目覚めよ、起き上がれ、目標に辿り着くまで立ち止まらず進め」
(サンスクリット語のヒンドゥー教の詩より)

 巨大な赤褐色の壺を頭の上に乗せていたり、ぶらぶらと散歩をしたりしている女のポーターたち、バニヤンの木の下で休む者たち、まるで溶けた蝋のように垂れ下がる枝。それらのかたわらを歩きながら、パーシヴァル・ヘッド=ウッドはこの暑さには耐えられないと感じていた。モンスーン前のこの夏の暑さはやっぱり、地元の連中にとっても、あるいはバニヤンの木にとっても耐えきれないものなのだろうか。パーシーは空想から自分を引き戻した。本当にうだるような暑さだが、国王と祖国のための任務へと取りかかろう。集中しなければ。
 パーシーの家族はずっと大英帝国に仕えてきた。しかし生まれつきの脚の神経損傷と重度の吃音のせいで、彼自身はその恩恵にあずかることができなかった。パーシーは自分が、西部戦線の胸壁の上で軍を率いるような英雄になれないことは承知していた。それどころか彼は、毛穴という毛穴から汗をかきながらここマドラスに駐在している、ただの副総監だ。それでも実際、警察の仕事はパーシーに向いていた。彼は抜け目のない分析的性格の持ち主で、几帳面で仕事もよくできる人物だった。細かい事柄には細心の注意を払う性分だ。戦争が終わって英国へ戻れば、コンラッドの小説に登場するテロリストや無政府主義を嗅ぎ回るヒート警部のように、ロンドン警視庁でポストにつくことができるだろう。そのためには、ここで自分の優秀さを示すことができれば十分だ。
 すでに彼は警官としての直感でもって、おそらくは無政府主義者の爆弾魔が関与する陰謀の可能性に感づいていた。パーシーはアマチュア無線が好きで、暗号化されたメッセージを収集し始めていた。最初は一重転置式で暗号化されていて、わかりやすい元の平文が単に並び替えられるだけだった。解読すると、メッセージには一見なんら犯罪性は見られない。世界各地で行われる石油貿易の話だ。アメリカ、日本、トルコ、ペルシア、メソポタミア――世界中のほとんど至る所で。しかしながら、メッセージのやりとりの後には必ず言及された地域で重大な事件――イギリス軍のクートでの降伏、ニュージャージー港での爆発、東南アフリカでのドイツ軍の勝利、ロシアでのボリシェヴィキの革命――が発生する。パーシーはこのことを偶然とは考えなかった。しかし一体誰が指示しているのだろう? ロシア帝国、同盟国、連合国――皆、敗者だ。同時に、世界中で独立運動が起きつつもある――アイルランド、チェコ、アゼルバイジャン、シク教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒。未知の脅威が世界中の帝国に支配される民に代わって戦争を画策したとでも言うのか。
 最近は傍受する暗号がより複雑になった――二重、三重、あるいは不規則転置式と言った具合に。途中まではまだ解読できるが、一重の並び替えからさらにスクランブルされているのだ。たまに解読に成功することもあった。Aは出現頻度が高く、Zはほとんどないので、解読はいわば文字の頻度を鍵にしたパズルだ。でも、Xとは何だ? ひょっとしてメキシコのことか?
 そして最近、またアルゴリズムが変更された。おそらく換字式暗号だが、文字出現頻度を隠蔽するためのごまかしの暗号だろうか? ただの数字の羅列のようだが、それぞれの数字が特定の語にマッピングできるのか? 暗号化されたテキストが十分にあれば、使用頻度の高い単語や文法規則は明らかになる。しかしパーシーはもう解読どころか、言語を特定することさえできなかった。そこにあるのはただの数字で、彼の処理能力を超えていた。しかし追跡すべき手がかりが一つあった――多くの無線電波の信号はとても強かったので、どこか近くから来ているにちがいなかった。彼は無線受信機を持って電車に乗り、信号を三角法で測定して、ここマドラスの大学キャンパスを突き止めていた。これは世界秩序を転覆させようと企むインドの反乱、謀反なのか? しかも、それがパーシーの管轄内にあるこの場所で計画されている? となれば今こそ力を発揮し、世紀の大事件を解決し、英雄となって世界を救うチャンスだ。
 このような変わった暗号をつくり出すには数学的技術が必須だ。パーシーは数学科の短期複式簿記講座を履修して潜入捜査を始めることに決めた。格好の口実だ。しかし、事は慎重に進めなければならない――もしも陰謀者に自分が警察だとバレたら、間違いなく命が危険にさらされる。
 バニヤンの並木に沿ってぶらぶらと歩き続け、パーシーはようやく大学、そして学生が履修登録待ちをしているホールへと辿り着いた。それはイギリスのインド支配を確立したベンガル総督クライヴの息子が建設したホールで、高く白い柱の上に誇らしげに立っていた。帝国の力を祀ったギリシャ風の神殿といったところである。こんな場所からジョージ英国王に対して反乱を企てるなんて、いったいどんなネズミ野郎だろう?
 インド人とイギリス人の学生が登録待ちで小さな列をつくっていた。「こ、ここ、こんにちは、ぶぶ、ぼくはパ、パ、パーシー・ヘ、ヘッド=ウッド。か、か、会計学をまな、学びにきたんですけど」パーシーは吃《ども》った。
 「いらっしゃいませ。のどが渇いているようですね。職員が来るまでの間、どうぞホールでご自由にお食事やお飲み物をお召し上がりください」
 歩いていくと、パーシーは豪勢なごちそうを見つけた。中でも一つの料理が特別食欲をそそる。甘い香りを放つシロップに浸かった、つやがあって赤茶けた団子状の食べ物。一つ食べてみる。とびきり上等ですばらしいではないか。ここしばらく警察の食堂で、胃もたれするケジャリーばかり食べていたが、インド料理にこんなにおいしいものがあると前から知っていたなら……。彼は一つ、また一つと食べていった。
 礼儀正しいインド人の事務員が近づいてきた。「お待たせして申し訳ありません。職員は間もなく来ますので。デザートを楽しんでおられるようですね。インドではこれはジャムンの木の果実に似ていることからグラブジャムンと呼ばれています。作り方は、まず牛乳をペースト状のとろみが出るまで――コヤと呼ばれる状態になるまで――コトコト煮詰めて、次に小麦粉とカルダモンのスパイスを加えます。混ぜ合わせたら団子状にして大桶一杯の溶かしたバターで揚げるんです。最後に揚がった生地をローズの香りの蜂蜜やサフランのシロップでコーティングしてやります。これまで味わった中でいちばんおいしいデザートだとお思いになりませんか?」
 事務員が一皿勧めると、パーシーはまた一つ取らずにはいられなかった。「と、と、とてもおいしいです」。パーシーは、膨張する腹の中にまた一つ蜜の味の歓喜が消えていくや否や、わずかによだれを垂らしながらベルトのバックルを一穴分緩めた。
 「どうぞもっと召し上がってください。まだ生徒もそろっていませんし職員もまだ来ませんから」。事務員はパーシーにまた一皿手渡した。
 彼はもうなぜここへ来たのかもほとんど忘れていた。ああ、うん、いいじゃないか、あともう一つだけ…。そしてローズの香る球体を口に放り込み、ネバネバしたシロップが極上の蜂蜜のように彼の口の中を満たす。
 事務員はふらっと教授陣の方へと退いていった。「警察だ。もし何か聞かれたら殺せ」。眼鏡を掛けた学生のそばを通るとき、彼はそう囁いた。

【訳者解説】
 イギリスからインドに来た警察官が、暗号メッセージを手掛かりにテロ組織を探る。そして、ある大学に潜入しようとするが、すぐに正体を見抜かれる。というスリリングな話です。
 では、なぜ正体がばれたか? 
 グラブジャムンの食べ過ぎ、というのが答え。「警察の食堂のインド料理がまずい」ということですから、インド料理を(いつもと違う感じで)おいしそうに食べるのは警官とばれてしまうのですね。あるいは、警察の食堂ではグラブジャムンを出しておらず、それを知っているテロリストたちはグラブジャムンをおいしそうに食べる人物を警官だと見分けているか。残念ながらそこのところがあまりはっきりしません。グラブジャムンはなんでも「世界一甘いスイーツ」らしいので、まあ、次々に食べる人物は怪しいですね、とりあえず。想像するだけで歯が痛くなりそうですが、食べてみたい。
 今回の短編は暗号についてのうんちくがすごい。転置式暗号とか、頻度分析とか、暗号理論とか、ウィキペディアで勉強するのは楽しそうです。
 暗号と言えば、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』に影響を与えたかもしれない、ハリー・マシューズ(Harry Mathews)のThe Conversions (1962) という作品があって、途中、言葉は英語みたいだけれど全然意味が分からない部分があるのですが、そこは実はすごく有名な方法で暗号化されているのだそうです。暗号好きな方はぜひご一読あれ。
 ついでに、「アメリカ文学 暗号」で検索するとトップにヒットするのは多分、マシューズではなくて、ピンチョンでもなくて、ポーの「黄金虫」だと思います。「黄金虫」で思い出すのは、リチャード・パワーズのGoldbug Variations。翻訳の進行具合はどうなっているのか、興味はあれど、関係者には尋ねづらくて尋ねていません……。
(了)


2014年5月29日木曜日

クイック・パラディドル



クイック・パラディドル(箸を使って)
(http://www.hashslingrz.com/quick-paradiddle-her-chopsticks)

ハッシュスリンガーズ著 舞さつき・木原善彦訳

 ワシントンの中心街にあるレストラン、レゾニョン(Les Oignons)の厨房でせわしなく働くリリアンの心は浮き立っていた。WJSVのラジオキャスターは、ヨーロッパでまた戦争が起きそうだと話している。リリアンは彼を無視し、ゴスペルの時間を心待ちにしていた。リンカーン記念館でマリアン・アンダーソン が歌うのを見たのは二日前のことだ。大統領夫人の後押しのもと、彼女は観客に向けて歌った。

音楽がそよ風を吹かせ
すべての木々から鐘が鳴る
素晴らしい自由の歌

 リリアンは歌い始め、料理長《シェフ・ド・キュイジーヌ》のジャックの方を向いた。彼が一緒に歌ってくれることを期待して。しかしどうやら彼は歌う気分ではないらしい。
「あら深刻な顔しちゃって、ジャック。何かあったの」
 ジャックはレゾニョンの歴代シェフの中で一番の腕前だった。彼はスフレを作っている最中で、泡立て器を両手に、右手は円を描くように、一呼吸遅れたリズムで左手でも掻き混ぜていた。右左、右左。
「また白人どもの戦争が始まるよ、リリアン。やつらはニグロを戦地に送るだろう、間違いない。けど今回は騙されない。俺は世界大戦《グレート・ウォー》の時、向こうで戦ったんだ。なにがグレートなもんか。あるのは泥沼か血の海。そこで銃弾が鈍い音を立てて胸に当たるのを待つか、悪けりゃ毒ガスの中で吐いて死ぬかだ」
「あんたが昔の話をするなんてね。どうしてフランスに行くことになったの、ジャック」
 ジャックは自分の過去を話したがらない人だった。リリアンが彼を知ってから一年かそこらが経っていたが、彼がレゾニョンに来る前の話をするのはこれが初めてだ。
「俺はジョージアのオールバニーで生まれた。母ちゃんと父ちゃんは俺をユージーンと呼んだよ。学校ではジーンだ。幼い時だった、俺は夜に父ちゃんが暴徒にリンチされるのを見たんだ。そしてヨーロッパへ逃げたのさ。フランスの外人部隊に入隊して、名前の綴りをフランス風にJacquesに変えた。ソンムで戦う羽目になって、戦場に横たわる何百もの亡骸を見たよ。ハリケーンの後に浜に打ち上げられた流木みたいだった。休戦後、アメリカに戻ってもすることがないからパリへ出た。フランス料理の技術を学ぶためにね。フランス共和国に人生を捧げようとしたんだが、戦争が終わりゃ俺は勇ましい英雄でもなんでもない、ただのアメリカのニグロさ。誰も俺をシェフ見習いにしようとしない。やっと見つけた仕事はハウスバンドのパーカッション奏者だった。モンマルトルの裏通りのナイトクラブでだ。俺を羨むやつもいるだろう。素晴らしい仲間と演奏していたからね。シドニー・ベシェ 、ジャンゴ 、ルイ・ミシェル にジョセフィン・ベーカー ……でも俺が憧れてやまなかったのは、完璧なクレーム・ブリュレの秘密だった」
 ジャックはボウルの端でキレの良いタップを交互に四回行い、泡立て器に付いた卵を落とした。そして手を伸ばし、パン生地の入った三十リットルボウルを鍋の上から降ろした。彼は夜に出すブリオッシュのため、それをこね始めた。肘は横に、手のひらは下に。ジャックはたくましい男で、肩幅は広く、手もとても大きかった。彼にかかれば作業は朝飯前だ。リリアンはよく彼をからかっていた。あんたが麺棒を使ったら、まるでお箸みたいね、と。ジャックはバター入りペストリー生地を、ダブルストロークパターンを使ってこねる。左は優しく、右は強めに。ドラッグタップで左右を入れ替え、生地を引き伸ばしては持ち上げ、リズムを上げながらそれを繰り返す。最後はオーク製まな板の上で、マルチプルバウンスロール。
「毎晩、俺はナイトクラブの隅に置いてあったラディックドラムの前に座らされた。けれども、いつも厨房のシェフの動きをタム越しに覗き込んでたよ。やつがやることは何でも見えていた。すぐにそいつのみじん切りを俺は真似し始めた。家に帰ってバンドメンバーに夕食を作るようになって、ドラムを叩きながらこっそり調理方法を学んで、どうにかして俺流の調理スタイルを編み出した。俺の腕はまずまずのもんで、どの料理もオリジナルだった。ある夜、キャバレーの歌い手でベルリン生まれのヒルデ・ウルフクローネが俺のシュー・ア・ラ・クレームを食べた。彼女はそれを気に入り、小さなクロッケンブッシュのため昼前に、俺のとこに立ち寄るようになった。いつのまにか単純にお菓子を楽しむ以上の仲になっていった。関係が始まり、時間さえあればいつもこそこそ彼女と会ってたよ。俺たちは誰も止められないくらい激しく愛し合った。最高だった、フランス人になった気分さ! その後、彼女は耳元で『愛は秘め事《リーベ・イスト・アイン・ゲハイムニス》』を歌ってくれるようになった。愛は秘め事。まったくその通りだよ。彼女はトランペット奏者のディック・ツィーゲルと付き合ってるなんて俺に一言も言ってなかったからね」
 ブリオッシュをオーブンに入れ、ジャックはステーキ用の牛肉を叩き始めた。慎重にマレットの支点を手の甲と均衡にし、泡立てと同じリズムで肉を叩く。マレットが跳ね返る。スピードが高まる一方、凄まじいパワーとコントロールは衰えぬまま。締めはアンダンテで、肉の繊維を叩き終えた。
「ディックは嫉妬深いやつでね。よく酒やヘロインでハイになってたよ。やつは銃を手に俺を探してやがった。銃撃戦になって何人かが傷を負った。モントマルトルだとはいえ、もし黒人が銃をぶっ放してみろ。ぼこぼこにされるに決まってる。だから俺は逃げた。そしてここワシントンに来たってわけさ。」
 次はコンカッセに使う野菜の下ごしらえ。包丁を両手に、大まかに切り刻む。連符をアレグリッシモに、五対四のポリリズム。仕上げに、ジャックは奥の流し台に向かって二本の包丁をぽいと放り投げた。それはウォッシュボードにぶつかり、ファンファーレのような音を鳴らした。
「昨日、俺はフランス時代に仲の良かったクロードに会った。ディックとグレタがワシントンに来てるらしい。グレタは映画に出演するため、ディックはドイツ系アメリカ人協会を通じてファシズムプロパガンダを広めるためにだ。ただクロードの話では、ディックは俺がこの街にいるのを知っていて、仕返しを目論んでるらしい」
 彼がそう話した時、レストランのドアが開いた。ディナー客が来るには早すぎる。給仕長も最初のお客まであと一時間はあるだろうと考えていた。リリアンは店内の様子を見に行き、ジャックは配膳口からそれをじっとうかがった。そこにはヒトラー風の髭に、ポマードできっちりと髪を横に分けた、小柄な金髪男性が立っていた。ディックだ。テーブルにトランペットケースを置いた後、ディックは顔を上げ、ジャックが配膳口からこちらを見ている姿を確認した。
「ついさっきボルチモアから何が届いたかを教えてやろう、ジャック」。ディックはトランペットケースを開け、ドイツ製拳銃ルガーを取り出した。「俺様、そしてこの拳銃だ《イッヒ・ウント・ディス・ピストル》。俺のヒルデを朝飯のオランジェみたいに搾りとって、ただで済むと思っていたわけではあるまい、ジャック。貴様をシュウェンカーみたいに吊るしてやろうか」
 隠れる場所はない。非常口は先週不法侵入があったため鍵がかけられている。鍵を持っているのは給仕長だけだ。ジャックは近くにある武器を掴んだ。リリアンが洗っていた山積みの麺棒だ。ディックが離れた距離で無駄に弾を使っている間に、何とかするしかない。「確かに俺はあんたの奥さんと関係があった。俺たちは何時間もじっくりと愛を育んだよ。やさしく、コトコトと煮込むようにね。ああ、俺は本当に美味しいソテーをヒルデといただいた。“ソテー”の意味は知ってるかい、ディック? “跳ぶ”って意味だよ」
 ジャックが浴びせかけた言葉にディックは憤慨した。彼はコンポートした桃みたいに真っ赤な顔で、銃を持つ手を上げた。左側から一発目をぶちこむ直前に、リリアンはテーブルの下にかがみこんだ。ジャックは右側から麺棒を投げて反撃する。左から、さらに二発の銃弾。右からは麺棒。皿に当たりとんでもない大きな音が鳴った。ディックはもう一発、左から弾を撃ち込んだ。ジャックも負けずにやり返す。右から麺棒を連投し、一本はルガー拳銃を床に叩き落とし、もう一本はディックの突き刺すような青い両目の間に命中した。彼は一瞬意識を失い、後ろにのびた。
 ジャックはその瞬間を見逃さず、店の中を突っ走る。ドアを開けている暇はない。彼はジャンプし、正面のガラス窓に飛び込んだ。着地は成功、幸運にもこの脱出による怪我はなし、ジャックの逃亡劇の始まりだ。
「歌い続けるんだよ、素晴らしい自由の歌を。リリアン」ジャックは叫んだ。
「手紙をちょうだいね、ジャック」リリアンは叫び返した。ジャックが消えていった暗がりに向かって。


[死の黒ツバメを追悼して(もちろん他の方々も)――安らかに眠りたまえ]


【訳者解説】
 久しぶりにジャズネタをたくさん織り込んだ短編です。昔のジャズミュージシャンらにささげた作品。ドラムの技法で料理をするという超絶技巧。麺棒対拳銃の対決は漫画的というか、香港映画的というか、スラップスティックですね。
 ハッシュスリンガーズさんは音楽好き(特にジャズ)らしく、ドラムの技法についても詳しいようです(ツイッターのプロフィールにも、一時期、ドラム練習中と書いてあった気がする)。ここで言及されている叩き方については下に少し注釈を添えましたが、ユーチューブなどでドラム練習法みたいな動画がたくさん見つかるので、ご興味のある方はそちらをご覧ください。
 その他、いくつか注釈を。
・マリアン・アンダーソン(1897-1993)。アフリカ系アメリカ人歌手。1939年に肌の色を理由にコンサートを拒否される事件が起きるが、エレノア・ルーズベルトが急遽リンカーン記念館の階段からコンサートを行うことが出来るよう手配し、1939年4月10日にアメリカ全土から7万人もの人が押し寄せた(http://youtu.be/mAONYTMf2pk)。ここで歌ったのは『My Country, 'Tis of Thee』でアメリカ合衆国の愛国歌の一つ。リリアンが短編の中で歌っているのはこの曲の三番の歌詞の一部。二日前に聞いたとあるので、1939年4月12日のワシントンが短編の舞台と思われる。
 ちなみに、マリアン・アンダーソンのリンカーン記念館コンサートと言えば、リチャード・パワーズ『我らが歌う時』の最初の方で重要な事件としてこの歴史的出来事が描かれています。ついでに(我田引水ですが)、デイヴィッド・マークソンの『これは小説ではない』には、ワシントンDCにあるDARコンスティテューションホールという施設が黒人であるマリアン・アンダーソンのコンサートの開催を許可しなかったときに「当施設では、今後もずっとマリアン・アンダーソンのコンサートが開催可能な日程はございません」という通知を送ってきたという事実が記されています。
・ソンムの戦い。第一次世界大戦最大の会戦。北フランスソンム川流域で行われた。
・シドニー・ベシェ(1897-1959)。ニューオーリンズ出身のジャズミュージシャン。クラリネット、ソプラノ・サックス奏者。ベシェの演奏する「レゾニョン(=玉ねぎ)」(https://www.youtube.com/watch?v=hNIBkE1ekF8&feature=kp)という曲がユーチューブで聞けます。レストランの名前はここから来てるみたい。
・ジャンゴ・ラインハルト(1910-1953)。ベルギー出身のジャズミュージシャン。ギタリスト。
・ルイ・ミシェル(1885-1957)。アメリカのジャズドラマー。
・ジョセフィン・ベーカー(1906-1975)。セントルイス出身のジャズシンガー、女優。黒いヴィーナス。
・ダブルストローク。スティックを一回振り下ろして打面を二回打つ、"ふたつ打ち"というドラムの叩き方。RRLL。
・ドラッグタップ。左右交互となる二つの音符からなり、最初の音符にドラッグの装飾音がつき、二番目の音符にはアクセントがある。LLRLRRLR。http://www.momoska.com/single-drag-tap.html
・マルチプルバウンスロール。左右交互に、任意の回数バウンドさせてドラムを打つパターンで、「バズロール」とも呼ばれる。均等で連続した音を出さなくてはならない。http://www.momoska.com/multiple-bounce-roll.html
・「ヒルデ」という名はヒルデ・ヒルデブラント(1897-1976)のことか? ドイツの女優。あるいは、とあるゲームの登場人物にも似た名があるようですが……。
・「グレタ」はグレタ・ガルボ(1905-1990)のことか? 言わずと知れた、スウェーデン生まれのハリウッド女優。1935年『アンナ・カレーニナ』と1936年『椿姫』でニューヨーク映画批評家協会賞、主演女優賞を受賞。3度アカデミー主演女優賞にノミネートされている。
・シュウェンカー。ドイツ、ザールランドでバーベキューの際に使われる道具。グリルを上から吊って、肉などに均等に火が行き渡らせるため、ブランコの様に揺らして使う。
・「死の黒ツバメ」というのは、ユージーン・ジャック・ブラード(1895-1961)の異名。史上初のアフリカ系アメリカ人戦闘機パイロット。第一次世界大戦でフランスのラファイエット飛行隊に所属。パリでジャズの演奏をした時期もある。この短編に登場するジャックは、この人を下敷きにして造形されているようですが、あくまでも下敷きにしているだけですので、誤解なさいませんよう。

(了)